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≪≪≪≪≪≪ ●メルマガ会報0031号 2010年9月27日配信● ≪≪≪≪≪≪≪
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┃信┃┃州┃┃大┃┃学┃┃物┃┃理┃┃同┃┃窓┃┃会┃┃報┃
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│田田田田田| │★ SUPAA MAILMAGAZINE BULLETIN 2010年秋号 │
│田田田田田|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│田田田田田|──┐■━━■編集・発行/信大物理同窓会事務局■━━■
│田田田田田|田田| (http://www.supaa.com/)
│田田田田田|田田|〒390-8621松本市旭3-1-1 信州大学理学部物理教室内
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■「旧文理学部物理学科」+「理学部物理科学科」OB&学生と教員の会■
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○-- 近年の就職難は「超氷河期」などといわれ、 --○ ∩
○-- 当会母体の信大物理科学科にも波及していま --○ ⊂○⊃
○-- す。今秋から、就職を目指す学部3年生と修 --○ ∪
○-- 士1年生を対象にした「物理学生への就職セ --○ ∞l∞
○-- ミナー」(仮)が開催されることに。卒業生の --○ ∞l∞
○-- 中から3名ほど講師として参加いただくこと --○ ∞l∞
○-- になりました。ご協力をお願いいたします。 --○
【 I ・ N ・ D ・ E ・ X 】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
◇ 信州大学物理同窓会事務局長就任のご挨拶・・・・・・・・・・ 志水 久
◇ 学生と卒業生の交流講座「物理学生への就職セミナー」・・・・ 藤 惇
◇ 連載第9回【信州大学への追想】“あの日あの頃”
「総合大学院問題を振り返る」・・・・・・・・・・・・ 宮地 良彦
◇ 松高生、世紀の大暴走《松本高校に寄せて(4)》・・・・・・・ 小林 善哉
◇ 古いがあまり知られていないお話・・・・・・・・・・・・・ 三上 浩佳
◇ 「大阪府教育委員」就任、活動顛末紀《前編》・・・・・・・・ 小河 勝
◇ ┃T|O|P|I|C|S┃ 宮地良彦先生を囲み、暑気払いの宴会
◇ ┃T|O|P|I|C|S┃ 信大理学部内で次回総会幹事が2回めの会合
◇ イベントご案内 ◎信州大学松本キャンパス 銀嶺祭
◇ ▼△ウィーン便り(5)△▼ 税務署まわり・・・・・・・・・ 大塚 直彦
◇ <再録>「同窓会費」は終身会費として1万円『会計細則』決まる!
◇ 編集後記
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■ 信州大学物理同窓会事務局長就任のご挨拶 ■
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志水 久(理学92SA/理学部物理科学科物性理論研究室准教授)
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,, 第13回信州大学物理会 総会において事務局長を仰せつかり
二‖二 ました。
‖ ,,
二‖二 信州大学には1992年4月から1994年3月までの2年間、修士課
‖ 程に在籍し、また、1998年10月から教官(独法化後は教員)とし
て勤めています。2年ほど前に武田先生からの依頼で同窓会の
手伝いをさせていただいていましたが、清水事務局長の退任により、はからず
も大任を任されることになりました。
本会の活動は、メルマガ会報、総会に加えて、昨年度から学生表彰への記念
品の贈呈を行っています。現在、物理科学科では、毎年度末1〜3年生を対象
に、各学年毎にその1年間の成績優秀者に対する表彰と、4年生を対象として、
卒業時に4年間の成績優秀者の表彰を行っています。
同窓会では、その表彰者への記念品の贈呈を行うようになりました。これを
きっかけとして、学科内で切磋琢磨してくれることを望んでいます。
また現在、学部3年生と修士課程1年生を対象にした就職セミナーの実施を
学科と検討中です。リーマンショック以後の世界経済の影響を受け、今年度の
就職内定状況はとても悪く、今なお(9月現在)就職活動中の学生がいます。物
理科学科は全国から学生が集まっていることもあり、就職先も全国的になりま
す。すぐに内定をもらう学生がいる一方で、多くの会社を受けている学生も少
なからずおり、物理を学ぶこととは勝手の違う就職活動に手子摺り、多くの時
間とお金と体力を消耗しながら会社を回っています。
検討中のセミナーでは、社会の中で活躍しておられる卒業生の方々に、就職
活動を始めた、あるいは始めようとしている学生達に、社会人としてのアドバ
イスを頂きたいと考えています。実施が決まりましたら、講師を依頼すること
になると思いますが、ご協力お願いします。
会の運営は全く未知のことで、不手際もあるかと思いますが、事務局長の職
務を微力ながら努めていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
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□■ 学生と卒業生の交流講座「物理学生への就職セミナー」(仮)の ■□
□■ 本年度からの開始についてのご報告 ■□
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藤 惇(理学2S/統計研究室・物理同窓会事務局 学生賛助担当)
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今般の就職難にかんがみ、物理学生へなんらかの賛助ができないか、当会事
務局と学科長の竹下先生との間で協議を重ねておりましたが、このたび、11月
に「物理学生への就職セミナー」(仮)を開催する運びとなりました。
講師は卒業生を3名ていど(そのうち一名は教員)とし、同窓会事務局が推薦。
主な対象は学部3年生と修士1年生とします。講師からは、職場の実態や、就
職活動に際しての心構えやノウハウ、最近の情報などを、お話いただきます。
また質疑応答に加わっていただき、就職活動直前の学生に役立ててもらおうと
いう主旨です。
講師の方には旅費が支給されます。これにかかる経費は就職部から年間3万
数千円用意されている資金を活用しますが、不足が出た場合には、当同窓会か
ら充当するように役員会で決まりました。
なお同窓会側の担当者としては、第14回物理会総会幹事の赤羽徳英さん(文
理10)にあたっていただくことになりました。詳細については、10月の学科と
同窓会の打合せで決める予定です。
その前段階として、他学部・学科の同様の活動実態を知るべく、関係者にお
会いして聞き取り調査を行いました。
人文学部同窓会が企画する「現代職業論」は年間15回のセミナーで、15人の
卒業生が各々に講義。学生はレポートを提出しそれが単位として認められてい
ました。また、数学科の「理数・自然情報科学科の講演会」は、2006年からス
タートしていて、9月〜10月ころ(年1回)に開催されています。一人の卒業
生講師が、就職に関する話題を中心にお話しているようです。
今後、物理科学科でもこの「物理学生への就職セミナー」(仮)は毎年の開催
になる見通しです。卒業生(当会会員)の方には、学年幹事などを通じて講師
の依頼をさせていただくこともあろうかと思います。その際には、是非ともご
協力いただきますよう、お願いいたします。
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【信州大学への追想】┃“┃あ┃の┃日┃あ┃の┃頃┃”┃ 連載第9回
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■ 総合大学院問題を振り返る ■
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宮地 良彦(信州大学名誉教授・物理同窓会名誉顧問)
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*
昭和41年の文理学部改組を含む信州大学の機構改革、昭和51
●● 年の理学部大学院修士課程の創設などに取り組んできた私には、
●※● 文部省の文教政策にはほぼ10年程度の間隔で大きな波があるら
●\§ しいということが一つの経験法則になりつつあった。昭和60年
∞\ 代初期に起こった信州大学の大学院博士課程問題は、まさにそ
のような波をなんとか乗り切ろうとして悪戦苦闘した取り組み
であったと言えよう。
この問題が一段落した昭和64年ごろの私の受け止め方は、「総合大学院とい
う全学的博士課程創設というのは学長の出身である繊維学部とそれに近い工学
部を充実させるための方便で、最後は文系、理系、農学系は切り捨てて工学系
大学院博士課程を目指す、というのが北条学長の戦略だったのではなかったか」
というのが、偽らざる心境であった。
しかしながらその後20余年を経た今日冷静に思い返してみると、このような
受け止め方はいささか一面的に過ぎたように思われる。北条学長は歴代学長の
中でも特に強いリーダーシップをお持ちの方で、繊維学部長時代にはそれがし
ばしば強引なワンマン的学部運営と受け取られた面もあったことは否定できな
い。しかしながら美ヶ原にアンテナを建てた信州大学ネットワークシステムの
構築などにもみられるように、幾分強引さを交えていたとしても、北条学長に
は全学的視点に立った戦略があったように感じられる。
北条学長は、いわゆる旧制6大学の総合大学院計画を耳にしてそれに追いつ
き追い越そうと、文部省幹部を飛び越して文部大臣に直訴したり、国大協で大
学院問題のまとめ役をされていた名大の飯島総長に働きかけたりすることによ
り、信州大学の総合大学院設置を目指して努力を重ねられた。最終的には「総
合大学院は旧制6大学限りの措置、理学系博士課程の増設はオーバードクター
問題もあって時期尚早」という文部省の強い意向に阻まれて実現はしなかった。
北条氏自身もこの壁は熟知していたと見えて、「文部省は、信州大学には3
っのペナルティがある。その一つは総合大学院に対する学長の執着だと言って
るよ」と洩らすのを、私は耳にしている。また、当時同じように理工学系大学
院博士課程を目指していた愛媛大学でも、「工学系ならば良いが、理工学に固
執するならば、話は遠いよ」と文部省が学長に対して言っていたことも、私は
親友の愛媛大学理学部長から聞かされていた。
しかしながらこの時の北条学長の取り組みが、理学系、農学系も取り入れた
今日の信州大学大学院博士課程機構につながったことを思えば、その先見性は
やはり評価されてよいのではなかろうか。当時の状況についてはすでに第7回
の後半に大体の経緯を付け加えておいたので、これ以上立ち入ることはやめに
して、以下ではそれ以外の話題に絞ることにしよう。
● 再度の理学部長職 ●
昭和58年に信州大学附属図書館長2期4年の任期を満了した私は、その後は
学部生、大学院生の講義、ゼミ、卒論などを担当する、平凡な日常生活に戻っ
ていた。そうした中にあって、昭和63年ごろになると、私の心の中にときどき
定年という言葉が浮かぶようになっていた。満年齢が昭和年号と一致する私の
定年は昭和65年3月ということになっていたからである。こんな私の前に思い
がけない事件が発生したのは、昭和63年2月のことである。
当時私は、岸本量夫(数学)教授とともに信州大学評議会の理学部評議員と
して黒田吉益理学部長(地質)をお助けする立場に立っていた。ところが2月
12日朝、自転車で通勤途中の黒田理学部長が、女鳥羽川にかかる曙橋のたもと
で車にはねられて、大腿骨頭部と骨盤骨折という重傷を負われ、信大病院に緊
急入院されるという椿事が出来したのである。
年度末を迎えて、入学試験、卒業判定、卒業式、入試判定、合格者決定など、
学部行事は目白押しである。私は黒田学部長の一刻も早い回復を祈りつつ、先
任の岸本評議員と力を合わせてこれらの諸行事の滞りない遂行に努力を続けて
いた。ところが、事故による入院が学部運営に及ぼす影響を心配された黒田学
部長は学部長職の辞任を表明された。この申し出を受けた理学部教授会はこれ
を受け入れて、急きょ3月15日に学部長選挙を実施することにした。こういう
場合の後任は先任評議員というのが通例であるのだが、選挙の結果は意外なこ
とに私が理学部長に選出されてしまったのである。
私にしてみると、大学生活最後の2年間は学部管理などという雑務から解放
されて自分自身の研究にじっくり打ち込みたいとかねがね望んでいた。しかし
こういう事態となってみると、私はこれを理学部への最後の御奉公と考えて、
4月1日から再度の理学部長をお勤めすることに決心した。大学紛争から間もな
い15年前の前回の理学部長時代に比べて、このころの学部はおおむね平穏に運
営されていたし、もうひとつは、私の年齢のせいで幾分ずうずうししさが身に
ついていたからというのが、本音でもあったのである。
● 3人の教授が同時に定年 ●
こうして始まった2度目の理学部長職は、総合大学院問題以外にはこれとい
った大きな問題もないまま推移し、年の明けた昭和64年には、1月7日の昭和天
皇の崩御により新しい天皇を迎えて平成時代を迎えることになる。
「あなた、定年になってどこも行くところが無くなっても知らないよ。今のう
ちに自分の趣味を作っておきなさい」と家内に警告された私が、医療技術短大
教授宮坂敏夫先生の指導されていた信大こまくさ句会に入会させていただいた
のは、年号が変わって間もない平成元年4月のことであった。ここには只木
(理)、池尾、松田(ともに教養)、上田(医)学部の諸先輩がおられ、月に
一度の句会でしごかれることになる。
学部全体の出来事として大きかったのは、通算8年間学長を務められた北条
氏が退任を受けて平成元年9月に行われた学長選挙に、前理学部長黒田吉益教
授が出馬されたことである。黒田氏は、前年の交通事故による怪我も手術によ
って順調に回復され、事故の半年後には脳出血に見舞われるという重なる災厄
も無事乗り越えられて、いくつかの学部からの推薦を受けて学長選挙に臨まれ
た。
黒田教授はこれまでにも何回かの学長選を北条学長と争われた経験もあり、
私たち理学部教官も全力を挙げて運動し応援したのであったが、医学部の赤羽
太郎教授に及ばなかったのは残念なことであった。
こうして迎えた平成2年3月、物理学教室では、鷺坂修二、辻村瑛、そして
宮地の3人の教授が同時に定年を迎えることになった。24年にわたる物理教
室の歴史始まって以来初めて送り出す定年教師である。
3月3日に行われた最終講義には、300人近い卒業生が集まってくださる
という盛況で、まことに教師冥利に尽きるありがたいことであった。ただしそ
の後も、前期、後期の大学入試、学部生、院生の卒業式など3月一杯年度末の
学部行事に追い回されて、後任人事の決まっている研究室
の整理と明け渡しもなかなか手に付かず、後期入試合格者
の定員確保もやっと終わってやれやれと一息ついたのは、 vvv
3月も押し詰まった28日ごろのことであった。その後赤 vvv ( )
帽引っ越し屋に頼んで研究室から自宅に本や書類を運び込 ( ) ~|~
むことにより、4月の声とともに私の信州大学生活は一応 ~|~ | /
の終止符がうたれたのであった。 |/\|/
(文中の肩書は当時のもので、敬称は省略いたします。) (以下次号)
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■ 松高生、世紀の大暴走−中房温泉の全校ストーム ■
《「前身」松本高校に寄せて(4)》
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小林 善哉(理学2S/電子研究室・広島市立美鈴が丘高等学校)
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前回、「青春の気概−炸裂する松高魂」と題し、「校長排斥事
(・> 件」と「巡査との乱闘事件」を紹介したところ、「当時の学生は
/彡)) 豪傑だったのですねー!」、「松高生のあの活力の源は何だった
/ / のだろう」という感想をいただきました。では、松高生を教えて
/"?k_ いた教官はどうだったのか、今回は同一の事件(昭和10年初夏)を
教官の著作と松高生の手記の両面から探ってみることにしました。
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# 伝統行事・駅伝
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
松高の伝統行事の一つに駅伝があった。これは、対類駅伝と呼ばれ、理科甲、
乙、文科甲、乙の4チームの対抗でおこなわれた。松高生はもとより、松本市
民にとっても、それぞれのひいきがあり、「今年は理甲だ」とか「いや、文乙
だ」という具合に、楽しみの行事であった。松高同窓会が創立88周年記念に
出したDVD「あがたの森の青春」を見ると、松高生が鶴林堂書店の自転車を
借りて伴走する様子が出てくる。まさに、市民と松高が一体となって盛り上げ
ていたことが分かる。しかし、その、伝統行事を快く思わない校長がいたので
あった。
昭和9年、西川順之校長は、「駅伝を止める」と教官会議で言い出した。
理由は、1.駅伝をやると授業がつぶれる。2.駅伝が誘因となって、以後の
授業がざわつく。3.校外デモはチンドン屋然として、最も見苦しい。という
もので、教師型人間の好む理由であった。
同調する教師も多かった。まさに決定しようとしたとき、蛭川教授の「反逆
心」がむらむらと湧き起こり、立ち上がって、生徒には息抜きが必要と駅伝の
意義を説いた。さらに、生徒には精力発散のはけ口が絶対に必要な所以を説い
たところ、駅伝中止の決定はひっくり返ってしまった。
数日後、蛭川教授は全校生徒を講堂に集めて「扇動演説」を行なった。
「お前たちの年頃ではセガレがいうことを聞かなくて困るにきまっているから、
こういう機会に精力を発散させろ。」
一方、生徒であった下平孝吉氏(16回文乙)は、蛭川教授の熱弁を次のよ
うに書いている。
「若い奴は駅伝でもやってフンドシをゆるめて青春を発散しなきゃ、キンタマ
が承知しない」
いずれにしても、このセガレの話は生徒たちを非常に活気づけた。そして、
一人の走者の走る距離も1マイルに戻され、駅伝は実にスムーズに行なわれた。
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# 駅伝ついに中止
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
しかし、翌10年、お祭り嫌いの西川校長はどうしても駅伝を中止すると言
いだし、蛭川教授もとうとうさじを投げてしまった。これという理由もなく、
単に校長の趣味としか考えられなかった。校長は駅伝の代わりに、温泉に浸っ
てのんびりしたいと年寄り臭いことを言い出したのであった。
生徒側は2,3泊ならやってもよいと言ったが、学校としてはそれを乗り切
る自信がないので強引に1泊旅行という校長案にしてしまった。
場所についても、生徒は諏訪あたりを希望していたが、学校側は警察のある
ところで騒がれては困るということで、とうとう日本アルプスの燕嶽(ツバク
ロダケ)の麓に孤立した中房温泉が選ばれた。校長は単純におとなしく週末旅
行をさせるつもりでいた。蛭川教授は、「西川校長は高等師範学校出で、高等
学校生徒の気持ちの分からん人だった」と書いている。
ところが、生徒課が、「当日出席ヲ調査ス。欠席スル者ハ一週間前ニ診断書
ト共ニ届出ヅベシ。(以下略)」という掲示を出した。
これまで駅伝は自由参加であったのにこのような指示が出ると、駅伝支持者
はもちろん駅伝に不賛成であった者までも不快を感じた。学校側の嫌がらせと
受け取られても仕方がない。生徒は何かしたいという衝動に駆られ、一騒動起
きても不思議はない情勢へと発展していった。
さらに、反対派であった安富教授は、「(学校の指示は)水筒の中味にはふ
れていませんね」と暗に酒を持ち込むことを授業中にそそのかすありさまであ
った。一方、蛭川教授は当初この1泊旅行はさぼるつもりでいたが、何かおも
しろそうなことが起こりそうだと予感し、それ見たさに同行することにしたの
であった。
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# 温泉旅行大成功?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そして、当日、大町行きの電車に乗り、有明で下車、そこから4里半山の中
に向かって歩くというかなり大変な行程であった。旅館は1軒しかないが、あ
ちこちに独立した建物があり建物ごとに温泉の浴室があり、教授は新館わきの
招仙閣に、旧館に3年生、新館に2年生に分かれ、1年生は東京府立第六高女
林間寮に分宿。旅館では、「松本高等学校御一行様御宿泊」という大看板を立
てて大張り切りで、玄関には新調の下駄をそろえるという歓迎ぶりであった。
校長は、生徒がおとなしくしているのを見て、計画が順調に進み大成功だっ
たと鼻高々で上機嫌であった。蛭川教授は「畜生、今に見ろ」とひそかに唇を
噛むのであった。
夜になって、各組それぞれコンパをはじめた。蛭川教授は自分が主任をして
いる理科2年甲類の組に出向き、得意の腹芸や草津の湯もみや、猥歌をいつも
に増して熱演。これは校長への腹いせであった。この組は酒を各自水筒に入れ、
さらに一升びん4本と多量の菓子を持ち込んでいたのであった。
さらに、文2甲では、玉川教授を迎えて大酒盛り。宿に到着早々売店の酒を
買い占めていたのであった。そして理2乙もこれに負けじと寮歌で気勢を上げ、
文2乙も全員で肩を組んでデカンショ踊りを始めた。そして、こともあろうに
蛭川教授は痛烈な扇動演説をし、「これから本部に向かってストームを敢行せ
よ」と絶叫し、騒ぎは一段と大きくなっていった。
蛭川教授が本部に帰ってみると、あちこちで始まった大騒ぎに気を悪くした
校長以下は気まずい顔をして座っていた。さながらお通夜のようであった。や
がて、ストームは一団一団と本部に迫り、デカンショや寮歌とともに「校長ど
うした」というわめきが聞こえてきた。
________________________________
# 全校ストームに発展
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
下平孝吉氏(16回文乙)は騒ぎの発端について次のように書いている。
※
本部の置かれた招仙閣で校長が「心配も杞憂だった」と喜んで、来年の行き
先の心配をしているとの情報が入ってきた。冗談ではない。生徒の不満が分か
らないのかと、不穏な雲行きとなり、騒ぎは一段と強まり、障子が吹っ飛び始
めた。
ふすまに穴を開けて通行する。旅館の下駄で廊下を歩く。天井は大波のよう
にグラグラ揺らぐ。驚いた番頭は止めるどころか真っ青になって帳場の片隅で
頭を抱えていた。
やがて、隔離されたかたちで不満を募らせていた1年生が騒ぎに駆けつけて
きた。さらに生徒の不満を爆発させる情報が入ってきた。それまで生徒と一緒
にいた蛭川教授と玉川教授が校長から叱責されたというのであった。
生徒は「徹夜でやろう」「寝かせるな」などとストームはいっそう激しくな
った。やがて、十数人が本部の置かれている招仙閣の廊下になだれこんだ。ガ
ラスの割れる音がし、ふすまを倒して乱入しようとする生徒を柔道教師が次々
に投げていった。こうして、何時間もストームが続いた。
※
下平孝吉氏(16回文乙)は、ストームはクラス単位から学年合同へ、そして
駅伝単位の科類へと広がり、夜10時頃には全校ストームに発展した。それから
クラスごとに一休みしては、交互にストームを繰り返すという波状ストームが
夜明け近くまで続いたと述べている。
________________________________
# 嵐の後の惨状
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ストームが去った後はすざましかった。廊下は何か所も踏み抜かれ、ガラス
は割られ、障子は倒されて、見る影もなかった。蛭川教授はその惨状を見て、
「とうとうやったな。俺の予想より遙かに荒っぽいではないか。松高生にまだ
これだけの力が潜在していたとは、頼もしいぞ。これならまんざら棄てたもの
ではないわい。」と思ったという。
翌朝、校長以下、後始末に狂奔。どの建物もガラスはほとんど割られて、足
の踏み場もない。障子の紙は破られ骨も折られ、半分ほどは池にたたき込まれ
ている。廊下はもちろん泥だらけ、数か所抜け落ちている。暴れた生徒は泥靴
のまま布団にもぐっている。池の鯉は石をぶつけられて殺され、相当数食われ
たという。
旅館では、どうしてこんなひどい目に会わされたのかさっぱり心当たりがな
いので目をぱちくりさせるばかりであった。
校長は首脳部と実地検分し損害の見積もりをしていたが、蛭川教授は生徒に
紛れて帰ってしまった。生徒のほとんどは、中房温泉の焼判入りの宿の下駄を
履いていた。これは、松高生をもてなすため宿が新調したものであった。蛭川
教授もこれを持ち帰って長い間自宅で使用していたというから、あきれてしま
う。
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# 事件後
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
当然のことながら、旅館側は建物を損壊されたうえ、本館で女中さんを蒲団
蒸しにされ激怒。校長は平身低頭せざるをえなかった。当然、多額の弁償金を
払うこととなった。
それから何日かたって、校長は全校生徒を講堂に集め、
「官立高等学校の校長が、心外にも一旅館主に頭を下げさせられた。・・・」
と声涙ともに下る演説をしたが、生徒たちにはピンとこず、小気味よさそう
にあざ笑うばかりであった。
しかし、なぜこれほどまでにしなければならないのか、という疑問がわいて
くる。下平孝吉氏(16回文乙)は、「このストーム騒ぎは、駅伝をやめて旅行
を強行したことに端を発したものであるが、当時の自由抑圧の風潮、諸事件
(注*1)後の学内の沈滞気運に対する青春の不満が爆発したものといえよう」
とその背景を分析し、「当事者にとっては騒ぐだけの理由があってのこと・・
・」と書いている。
(注*1)=昭和8,9年の校内外の出来事=
[昭和8年]: 長野県教員赤化事件。思誠寮に特高入る。松高映画研究会
合評会に刑事傍聴。第三次松高思想事件で多数検挙、5名が起訴され懲
役2年・執行猶予4年、放校処分。連累者があり多数停学処分となった。
[昭和9年]: 司法省に思想検事、文部省に思想局設置。山岳部員穂高屏
風岩で墜落負傷。山岳部員明神岳より穂高岳に下る途中転落、松高初の
遭難死。
また、この中房温泉での事件は、「旅行先の高校生 三百名大暴れ “駅伝”
問題の鬱憤爆発」という見出しで新聞でも報道されたが、原因は学校側が
「弾圧政策」に出たためとする、生徒に好意的な記事であり、世の中が松高生
を温かく見守っていたことが分かる。
この中房温泉の騒動で、騒動の首謀者は見あたらず、全員が騒いだというこ
とで、生徒の処分はなかった。そして、翌年駅伝は復活することになったので
ある。
蛭川教授はこの話の最後を次のように結んでいる。
「生徒の心を本当に掴まねば教育にならない、という生きた見本であった。」
________________________
※蛭川幸茂著「落伍教師」132〜135ページ
※松本高校同窓会編 「われらの青春ここにありき」
218〜220ページより要約、引用しました。
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■ 古いがあまり知られていないお話 ■
ルジャンドルの多項式Pi(x) と球ベッセル関数ji(α) のフーリエ変換関係
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三上浩佳(文理10/宮地研究室・物理同窓会事務局 総務 担当)
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人 今回のお話は、見たところページの空白が数式で埋めら、
/ \ ※ れ無味乾燥なものに見えて興味をそがれる方も多いでしょ
(∴∵∴)※※ うが、「こんなこともあるんだ」というような軽い気持ち
 ̄ ̄ ̄※※ で読み流していただければ幸いです。
さて、標題を目にして、物理数学の達人の諸兄には「そんなことあるの?」
といぶかる方も多いと思います。今もどこの大学でも話題にのぼることはない
でしょうし、和洋を問わずどの数学公式集にも載っていないのですから無理か
らぬことです。
学生時代を振り返って物理数学の公式集をパラパラとめくってみたとしまし
ょう。ルジャンドルの多項式Pl(x) は量子力学に良く出てきました。球ベッセ
ル関数jl(α)については、情報理論や通信工学など振動系をやった人は目に
したことがあるかもしれません。ベッセル関数というのは聞いたことがあるが、
球ベッセル関数というの何だろうという人も多いでしょう。
球ベッセル関数というのは、通常のベッセル関数のオーダーが半整数のもの
を言い、次のような三角関数の集まりからなる関数群です。
(以下、次のアドレスのWEBページをお読みください)
【続き・全文→ http://www.supaa.com/kikou/mikami01.html 】
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■ 「大阪府教育委員」就任、活動顛末紀 ■ 《前編》
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小河 勝(文理18/鷺坂研究室・大阪府教育委員 奈良県在住)
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|) 小河さんが執筆した中学生向けの国語、算数の教材「小河式プ
'―o―, リント」がベストセラーになったことは記憶に新しい。「百マス
(| \ 計算」で有名な陰山英男氏と共著を著わすなど、「ゆとり教育」
に警鐘を鳴らして、小・中学生の基礎学力向上に取り組んでおら
れます。また、2008年の10月からは、橋下徹・大阪府知事の要請を受けて大阪
府教育委員会委員に就任されています。この間のいきさつを、信州大学文理学
部同窓会報第38号に寄稿されましたが、これに別途オリジナルの加筆をしてい
ただき、前後2回に分けて連載いたします。
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◎ 橋下知事から突然の電話が入った
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2008年8月半ば、橋下知事から私の家に電話がかかりました。
「大阪府の教育委員に就任していただけないか」と。
あまりにも突然の依頼だったので「なぜ僕に?」と思いました。しかしそれ
以上に彼の教育行政に対する反発が強かったので即座に断ったのです。
「すみません。そのご依頼にはお応えできません」と。そう断ってから「おか
しいな?」と思ったのでした。その春、僕は橋下知事の就任後の会見を新聞紙
上で見ました。
彼は「大阪の学力は全国でも最低というほど低いですね。どうされるつもり
ですか」という記者団の質問に「簡単です。東大、京大へドンと合格者を増や
せばいいのです」と応えていたのです。実に単純、稚拙な考えです。この発言
に「教育や教育現場のことを何も分かっていない」という不信感・で僕は新知
事に落胆していたのでした。
4月、前任者の大田知事時代の決定で、すでに準備していた小学校低学年を
35人以下にする政策を彼は財政危機秒ため実施しないと発表しました。これは
とんでもないことです。私学助成維持を訴える高校生との対談でも「経済的に
苦しいなら公立へ行けばいい」の一点張りで拒否する姿勢を崩しませんでした。
私は誰かが何かを言わねばならない、との思いでいらいらしていたのでした。
その直後に出発し、5月当時、僕はスリランカのコロンボにおりました。JI
CAの要請で向こうの義務教育の改善を依頼され、スリランカの教育省(日本の
文科省)と相談しながら教育課程の改革を進めていたのです。
◎ 勤務先はいずれもすさまじく荒れた中学校
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
僕は文理を卒業後、大阪市の中学校の理科教師として32年間勤めておりまし
た。転勤した勤務先はいずれもすさまじく荒れた中学校で「荒れ」の渦まく中
を走り続けていたのです。生活指導を主に担当し、生徒会づくりや地域づくり、
校舎破壊やいじめへの対応など、問題行動への対応に明け暮れていたのでした。
その中で荒れの根本原因は家庭の経済状況や社会的背景もあるにせよ、中心
的な問題は子どもたちのつまずきにあるのではないかという考えにたどり着い
たのでした。教師となって7〜8年目だったでしょうか。
彼らのつまずきの実態は目を覆うほどの状態であります。
例えば3桁×3桁の計算を仮に中学生一人に10問させるとしましょう。それを
100人の中学生の生徒たちにさせたら何問の正答を答えることができると思われ
ますか。
私の中学一年生に対する調査ではびっくりするような結果が出ています。10
0人が10間ずつですから1000問です。その内、なんと半分が間違うのです。500
問がバツ。「うそだろ!」という声が聞こえそうですがうそではありません。
本当です。
今日、子どもたちの学力低下が叫ばれていますがその実態はかくの如しであ
ります。
そんな状況のまま中学校で勉強ができるでしょうか。できるはずがありませ
ん。努力以前の問題。友達に教えてもらっても、塾へ行こうともいくら努力し
ても分かるはずがありません。どんなに努力してもできない。そんなままの授
業を何時間も毎日我慢しながら耐え続けねばならない状況、想像できるでしょ
うか。それはまさしく拷問というべきです。
彼らが絶望し、のた打ち回る中で「自分の周りの健全なものすべてが憎たら
しく見える。見ているだけで腹が立ち、ぶっ潰したくなる」……そうなるので
す。そういう心情もうなずけます。逆に彼らにとって勉強ができるようになる
ことはなによりも重要です。それは未来に直結することです。
勉強がわかり始めると彼らは一挙に変わります。あの荒れていた彼らはなん
だったんだというほどです。まるで心の中に覆っている暗鬱と垂れ込めていた
雲が飛び散り、青空が広がるようにすっきりした顔つきに変わるのです。その
ためには彼らのつまずきを調査し、その箇所をつかみ、適切な対応をしてやら
ねばなりません。
◎ 『学力低下を克服する本』などの執筆
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
32年間の荒れとの苦闘の中で私は『学力低下を克服する本』(2003年文芸春
秋社刊)を書きました。それは何年もの実践の中で一歩一歩と成果を積み上げ
てきた内容をノンフィクションで書いたものでしたが、幸い教育界のみならず、
各地の家庭の保護者からも大きな賛同をうけました。
さらに具体的な教材を作って欲しいという出版社からの要望で『未来を切り
開くシリーズ 小河式プリント中学数学基礎編』(同)『国語基礎編』(同)
を出版したのです。JICAに呼ばれたのはこれらの活動が原因となったのでした。
話をコロンボに戻しましょう。
ホテルに国際電話がかかりました。朝日新聞社からです。記者はいきなり
「橋下知事の大阪府への教育策をどう思いますか」と切り出しました。
突然自分に向けられた質問に何を話してよいやらまごつきながらそれまで胸
にたまっていた「誰か、何かしゃべってくれないか」という思いを話しました。
いったん話し出すと止まりません。山のような批判があふれ出てインタビュー
は2時間近くにも及んだのです。
その記事は6月3日、5段割りの大きな内容で載りました。
それは現場から反論するという具体的な教育現場の実情に基づいて少なくと
も橋下知事の考えや発言を手厳しく批判する内容となったのです。
知事からの教育委員への就任要請を断ったあと「おかしいな?」と感じたの
はこのことでした。
「僕が知事に反対意見を持っていることは十分分かっているはずだろう。なぜ
その僕を教育委員に要請するのか?」
迷いながらの結論は「ひょっとすると反対者を含めて議論する度量があるの
かもしれない」ということでした。もしそうならそこまで拒否する理由はあり
ませんでした。しかも要請の内容はぜひとも大阪の子どもたちの学力を上げて
欲しいということだったからです。
これは僕にとっては厳しい課題でした。断るどころか自らむしろ積極的に解
決しなければならない世界であったからです。
ところがありえないことに、半月後再び知事から「やはり何とか教育委員に
就任してもらえないか」という電話がかかりました。まさか再び要請されると
は思っていませんでしたが、その時点では僕の気持ちは決まっていました。
◎ 現実的結果重視の知事の考え方に同意
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
知事との挨拶代わりの会食がホテルで開かれました。そこで「なぜ僕なので
すか?」と聞いたのです。すると知事は次のように答えました。
「新しい教育委員を探して、4月から全国各地、いろいろな人々と話し合いま
した。皆さん立派な方でそれぞれしっかりしたご意見を持っておられました。
しかしおのおの主張しておられる内容を確かめると肝心の実績という点ではま
ったく未知数だったのです」
知事の僕を指名した理由は実績だったのです。特に知事の目的は一般的教育
論ではありません。大阪の子どもたちの学力をなんとしても上げるということ
でした。
なるほどと思いました。僕は僕を選んだ事実よりもそういう現実的結果重視
の知事の考え方、思考の重点の置き方にうなずかざるを得ないものを強く感じ
たのです。
就任式は府議会で行われました。府議会は大阪城の前にある明治以来の大理
石の建物にあります。400人ほどの府議の居並ぶ前での宣誓。隣にいる陰山英
男君は中教審の委員でありながら「こういう場面はぼく、あかん。いつも心臓
がバクバクする」というのですが僕は不思議に平気でした。
宣誓と挨拶をし、就任式を済ませてから知事室で知事とともに記者会見をし
ました。その日の夕刻、テレビに、翌朝の新聞に写真が載りました。いよいよ
開始です。
そこからは何があったかよく覚えていないほど、ただベルトコンベアーのよ
うな日程をこなし続けるプロセスだったのです。教育委員会各部局との挨拶、
各市首長との挨拶、各市教育長との挨拶、府議会各会派への学力を底上げする
ための教育への基本方針の講演など。
面白い記憶があります。橋下知事の発案として府民討論会という機会があり
ました。
一回目、10月末、大阪府立大学で行われたのですが、聴衆の中から横断幕を
会場内で広げ、知事に罵言雑言を浴びせる(誰かから革マル派だと聞く)集団
がいました。腹を立てた知事がそれに猛烈に反論する、他の聴衆が知事に賛同
するなど会場が大混乱に陥ったのです。しかももともと参加希望者が多すぎて
会場への参加規制が強すぎたことがありました。
そこでこの府民集会の2回日が広い厚生年金会館で行われました。物々しい
警戒の中、参加者1400人。ものすごい数の人です。
その壇上で知事が「もっと教育に競争を導入するべきではないか」といいま
した。僕は挙手しました。そして「兢争を教育の動力にするなどは下劣のきわ
みです」といったのです。会場は賛否両論に分かれ、わっと拍手、非難の声と
いう反応が起きました。知事はむっとしておりました。
他方、子どもたちの学力作りの取り組みが始まりました。
(以下次号)
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┃大┃塚┃直┃彦┃の┃ウ┃ィ┃ー┃ン┃便┃り ┃第┃5┃回
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◎税務署まわり
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大塚 直彦(理学24S/国際原子力機関・IAEA勤務)
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ウィーンは名物アスパラガスの時期も終わりつつあります。来月にスペイン
のある大学院の集中講義を控え、こちらも重い腰を上げて講義の準備に取りか
かり始めたところです。さて、今日は朝から所用のため市中に出ていたら出勤
時刻に間に合わず、しかし、その所用がウィーン便りにふさわしい内容のよう
に思えたので、午前中は原稿執筆のために休暇を取ると決めてカフェにやって
きました。
10時前ということでこのカフェの二階には誰も客がいません。これなら原稿
を書くのに集中できて良いかなと思ったのですが、しかし、他に客のいないカ
フェというのは何ともわびしいものです。人とつかず離れずのウィーン人がカ
フェを愛するのを解したつもりになりつつ、いまアイスコーヒー(ちなみにウ
ィーンのアイスコーヒーはアイスクリームの乗ったコーヒー)を注文したとこ
ろです。 (24JUN.2010)
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■ 車の購入にかかる税金(取得税NOVA)
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o その今朝の所用というのは車の購入にかかる税金(取得税
⊂二二⊃ NOVA)の話です。公共交通機関の充実したウィーンに居る限
⊂| |⊃ り車など不要だと思っていましたが、ウィーンを離れるある
|___| 国の外交官(Aさん)から車は要らないかという話があり、
()()()()() まあ、来客の送迎や郊外に出かける時には便利かな、と頂戴
することにしました。
この車は、もともとBさんというこれまたある国の外交官が新車で取得した
もので、その車を外交官Aさんが譲り受け、それを僕が譲り受けたという代物
です。
オーストリアでは、通常、車を購入すると取得税がかかりますが、在ウィー
ンの国際機関の職員はある一定条件のもとでこれが免除されます。一定条件と
は例えば2年に1度の購入に限られる、などらしいのですが、中古車の購入に
これがどう適用されるかということははっきりしませんでした。
オーストリアで車を自分の名前で登録するためには、保険屋を通じて新しい
ナンバープレートを交通局で受け取る必要があります。必要経費193EURと希望
保険会社名を職場の自動車購入担当者に伝えると、彼は手慣れた様子で「明日
にもできあがるから取りにおいで」と言います。
ところが、翌日彼のところにでかけるとそこに僕のナンバープレートはあり
ません。「この車は交通局でブロックされていて登録できない」と言うではな
いですか。ブロックとはなにごとかと、調べてもらったところ、「AさんがB
さんから車を購入した時に『外交特権』を行使されなかったのが原因らしい」
というのが数日後にこの担当者から得た説明でした。
「でも、なぜAさんからBさんから車を受け取った際に取得税を払わずに済ん
だそうですよ」と聞くと、「当時は今ほどチェックがきちんとしていなかった
のだろう」と言います。
それで、まずAに「あなたは外交特権を本当に行使したのか?」、と聞いて
みました。「外交特権」を行使するといっても水戸黄門のような印籠があるわ
けでもなし、果たしてその行使をいかにして交通局に宣言するのかよく分かり
ませんでしたが、「それを宣言する特別な書類などないし、そんな書類なしに
取得税を免除された」というような、予想した通りの回答がAさんから戻って
きました。
このことを職場の担当者に伝えたところ、「『U45』という様式がありそ
れをAさんが出し忘れた可能性がある」と言い、また付け加えて、「あきらめ
て税務署(Finanzamt)で取得税を(約400EUR)を払ってきたらどうだい」などと
も言いますが、釈然としません。職場の担当者とこれ以上相談してもらちがあ
かない、と判断し、彼から取得税納入先として教わった職場近くの22 区の税
務署に昨日出かけました。
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■ 22区の税務署から8区の税務署に行くよう指示
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税務署に入ってみると中はテナントの抜けた貸しビルのようにがらんとして
います。窓口に職員と来訪者が数人いるだけですがどうやらここは税務署のよ
うです。
僕の番が来て事情を話したところ、彼女は幸い英語のできる人で話が通じま
した。「では担当者のところに行きましょう」と、彼女は僕を奥へと案内しま
す。彼女が持っている鍵で幾重ものドアを開けて奥へと進んでいくと、大学の
教員の研究室のように個室がずらっと並ぶ廊下に出ました。(こちらでは個室
オフィスというのが珍しくないようです。)担当者の部屋で一通り事情を話し
たところ、(これがウィーンらしい展開なのですが)「あなたは17区に住んで
いるのだからそこを管轄する8区の税務署に行きなさい」と、あっさり終わっ
てしまいました。
普段はドアを閉め切っていてあまり対応のよくない職場の車購入の担当者も、
今回ばかりは状況が気になったのか「その後どうなったか」とメールを寄こし
ました。
そこで22区の税務署から8区の税務署に行くよう指示されたと顛末を報告し
ました。(当然ながら「間違った税務署を教えて済まなかった」などという詫
びはありません。こんな時、いかに自分には不備がなかったか、と険しい表情
で言い訳をする人が多く、そういう不愉快な言い訳を聞かずに済んだだけ、今
回はまだましなのですが。)
そこで、今朝また路面電車とバスを乗り継いで8区の税務署に出かけました。
昨日と同じようにまず窓口に出かけると丁度先客が相談を始めたところです。
最初はにこやかだった窓口の担当者の声が次第に大きく激しくなるのを見て、
「果たして自分の事情はちゃんと聞いてもらえるか、そもそも英語は通じるだ
ろうか」、と段々と不安になってきたあたりで、自分の順が回ってきました。
受付の女性は担当者に電話で確認をし「NOVAを払う必要はない」と言います。
しかし、税務署の受付にそう言われたと交通局に伝えて問題が解決するとも思
えないので、「その規則は大使館職員ではなく国際機関の職員が買った場合に
も適用されるか」と念押し。すると、彼女は担当者の女性を受付に呼び出して
くれました。
その担当者が、また昨日のように幾重ものドアを開け、僕を彼女の個室に通
しました。2枚の売買契約書(僕とAさん、AさんとBさん)と僕の身分証明
書を机上に置き、ぶ厚いファイルをめくり、書類を一行づつ指でなぞりながら
時間をかけて調べます。
20分ほどたって、彼女は、僕が今回取得税を払う必要はない、と判断を下し
ます。「大塚直彦氏は取得税を払う必要はありません。」という証明が欲しか
ったのですが、とりあえず何かあったらこちらに電話しなさいと名前と連絡先
を教えてくれました。その後、更にパソコンで何やら書類を打ち出しそれを午
後の作業に使う、というので、まあこれで問題は解決されるだろうと信じるこ
とにしました。
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■ 外交官案件を地域税務署で扱わない?
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この担当者がまたドアを解錠し僕を玄関まで見送ってくれましたが別れ際に、
「外交官案件を地域税務署で扱うことはあまりりなく 今日は時間がかかって
申し訳なかった」、という率直なお詫びまでもらい、これにはちょっと驚きま
したが、こちらとしては、時間がかかってでも良いので正しい答えが欲しかっ
たので、(出勤時間に間に合わなかったのを割り引いても)このことは気にし
ていませんでしたが。
ちなみに、当地ではある手続きの判断が人に依存することが珍しくありませ
ん。例えば、窓口で切符を買う際に割引の適用や払い戻しをお願いしたところ、
「そんな割引はありません」「払い戻しはできません」と言われたとしましょ
う。ところが、大きな駅の場合は窓口をいくつか回っていくと、そのうちこち
らの希望があっさりと通る窓口に出会う、ということがあります。
ある案件を処理するというのがウィーンではいかに大変か、以前から本など
で読んではいましたが、今回はそれを実体験することができました。当該案件
を処理をできる役所を探し当てて受付で状況を説明し、幾重ものドアを開けて
担当者の部屋に通され、そこから別の役所に回されてまた幾重ものドアを開け
て担当者の部屋に通され、そして行き着いた正しい担当者が分厚い書類をめく
って、ようやく回答が得られるわけです。
大変ですが、こちらが欲しい確証が得られると、それはそれでなんとも嬉し
いものです。
さて、12時前になったのでそろそろ勘定を済ませて職場に出かけることにし
ます。本当は「ナンバープレートを手に入れられました、めでたし」と括りた
いのですが、原稿の締切がそれを許さないので、ここまでとさせてください。
※後日談:無事にナンバープレートを取得することができました ↓
写真( http://www.supaa.com/kikou/im/otsuka/w05.gif )
●『OB/OG』第6回→( http://www.supaa.com/kikou/otsuka01.html )
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┃T|O|P|I|C|S┃
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▲▼ 宮地良彦先生を囲み、暑気払いの宴会が開かれました ▼▲
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去る7月28日、信大物理同窓会の暑気払いが松本市中町の草庵で行われた。
まだ日が高い18時の開宴であったが、10名の酒好きが参集した。県外からは広
島市の小林さん、町田市の斉藤さん、桐生市の三上さんがはるばるお越し下さ
った。藤さんの開宴の挨拶に続き、三上さんの乾杯の音頭でジョッキーを飲
み干した。飲むほどに、話は近況から過去へ遡り、宮地先生を中心に昔を偲ぶ
思い出に話が弾む。ほとんどの方が還暦を過ぎていたためか、飲み物はビール
から冷や酒に変わり、ますます調子が上がる。何時の間にか予定時刻の20時を
まわり、21時を過ぎた。まだまだ話は尽きないが、予算がつきる。後ろ髪を引
かれる思いで、お開きとした。
先の忘年会で、宮地先生から夏には暑気払いをしようとの発言があり、これ
に賛同して私が世話係を引き受けた次第です。至らぬ事ばかりで、皆様にはご
迷惑をお掛けしましたが、楽しい一時を過ごすことが出来ました。有り難うご
ざいました。異常な暑さが続いています。ご自愛下さい。
報告・赤羽徳英(文理10)
▼写真などは、次のWEBページでご覧ください。
◎WEB版→ ( http://www.supaa.com/pages/osirase.html#100728 )
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▲▼ 7月31日 信大理学部内で次回総会幹事が2回めの会合 ▼▲
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
来年第14回物理会総会の幹事候会が、理学部のイベント「自然のからくり」
開催中の7月31日に開かれました。幹事に加えて、武田学部長にも会議に参加
していただきました。まず日程ですが、恒例の5月最終土曜日の2011年5月28日
(土)に決定。記念講演の講師については、候補を挙げて、その方に都合を尋ね
ることにしました。
第3回会合は、信大の学園祭「銀嶺祭」開催期間中の10月30日(土)午後4:
00から、A棟6階ラウンジで。新たな幹事も募集中です。今回欠席された方ある
いは呼びかけが届かなかった方もどうぞご参加ください。
《第14回物理会総会の幹事》
■赤羽徳英(文理10) ■藤惇(2S) ■渡辺則夫(4S) ■上條弘明(9S)
■志水久(91SA) ■河上陽介(01S) ■清水文崇(06S)
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┃イ┃ベ┃ン┃ト ┃ご┃案┃内
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◎信州大学松本キャンパス 銀嶺祭
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■ 日時:10月30日(土)〜31日(日)
■ 会場:信州大学松本キャンパス(松本市旭3-1-1)
■ 開催学部:人文・経済・理学・医学・全学教育機構
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<再掲>■「同窓会費」は終身会費として1万円。『会計細則』決まる!■
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1.同窓会費は終身会費として1万円とする。一括払いを原則とするが、本
人からの申し出があった場合は事務局長が分割払いを認めることができる。
2.事務局長名で金融機関に同窓会の口座を設ける。事務局長が通帳・印鑑
を 管理する。会計担当がカードを管理して口座からの出し入れなどを行う。
3.在校生からの同窓会費徴収は、事務局が徴収日を決めて実施する。徴収
後、在校生の会費支払い者リストは、すみやかに会長ほか、会計担当および
関連事務局員に伝達する。
4.金融機関への振込み手数料は会員の負担とする。
5.会計担当は、年1回開催する総会を利用したり、メールで呼びかけたり
して、 卒業生からの会費徴収に勤める。
6.毎年開催の同窓会総会における参加費の徴集など会計管理については、
その年の幹事が担当し、事務局が補佐する。必要経費は事務局から事前に仮
払いのかたちで支出できる。幹事は開催後しかるべく早く収支を事務局に報
告し清算する。
7.会計年度を4月から翌年3月とする。 ┳ξ
会計はすみやかに決算報告を作成 ●●●
して会計監査担当から監査を受ける。 ●●
●
8.本細則の改正は総会で行う。
┏━┳━┳━┳━┓
▼下記いずれかの口座に┃同┃窓┃会┃費┃のお振込みをお願いします!
┗━┻━┻━┻━┛
------------------------------------------------------------------
◆郵便局の場合/通常郵便貯金
記号:11150 番号:20343411
口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
住所:390-8621 松本市旭3-1-1
◆銀行の場合/八十二銀行 信州大学前支店
店番号:421 普通預金 口座番号:650215
口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
住所:390-8621 松本市旭3-1-1
 ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄ ◎編集後記◎/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄
◎・・近年の中国や韓国企業の著しい世界展開に比して、日本の産業競争力が
急速に衰えているといわれていますし、それを実感する方も多いと思われます。
技術で勝っても市場で負ける構図です。これからは、物理屋といえどもグロー
バル化への対応のみならず、市場経済への広い関心を持つ必要があると思いま
す。物理同窓会で企画中のOBの交流講座(就職セミナー)が、その一助となる
ことを期待しています。 (HT)
●・・「物理学生への就職セミナー」の準備のため、人文学部
/\ ☆ 同窓会室の米原さんと数理学科の栗林教授にお会いして他科の
│○│ 例をお聞きしてきました。それぞれに方法は参考になりました
│ │ が、どこも就職難では共通していました。数理学科(定員55名)
/| |\ では、約半数が教員志望。しかし就職できるのは1、2名とか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ●・・小河勝さんは、教育関係者にはたいへん有名な方です。
|||| 文理学部最後の卒業生で、大阪の中学教師を長年勤められ、定
年後は、中学生の自主学習を手助けする「小河学習館」の館長
をされています。今回、大阪府教育委員会委員に就任されたいきさつについて、
文理学部同窓会報から転載しました。やはり現場の発想が大切なようです。
●・・小林善哉さんの松高シリーズ第4弾は、昭和10年に勃発した「中房温泉
の全校ストーム」事件。いやはや、当時の学生のエネルギーの凄まじさには驚
かされます。何度も笑わせていただきました。しかし“面白うて、やがて哀し
き……”の感想を抱いたのは小生だけでしょうか? (MT)
○・・今年の夏は猛暑に見舞われて過酷な日々を過ごしました。今後この様な
猛暑と冷夏(2003年夏)が周期的に来襲すると予報する気象学者がいます。住
み難い地球になるのでしょうか。
〇・・住み難いと云えば、長期化する経済不況、不安定な政治に国民は先行き
が見えなく不安がつのるばかりです。特に就職氷河期と云われるこの時期の新
卒学生諸氏は大変な思いをしていると思います。志水新事務局長の決意表明に
もありますように、当同窓会は学生諸氏との交流セミナーを計画しております。
微力ながら就職活動の支援をしたく進めております。同窓会の諸先輩諸氏も後
輩の為に手を差し延べて頂きたくお願いします。 (MM)
===================================
■ MAILMAGAZINE BULLETIN 『信大物理同窓会報』0031号(2010年秋号) ■
□ 2010年9月27日 編集・発行/信大物理同窓会事務局
《編集委員》松原正樹(文理10)藤惇(2S)太平博久(6S)
□編集長:藤 惇 □ 発行人:根建 恭典
┌──┐ (http://www.supaa.com/)
│\/│ (info@supaa.com/) (makoto@insatell.co.jp)
└──┘
___________________________________________________
(C)信州大学物理同窓会事務局 無断複製・転載を禁ず
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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