[ 信大物理同窓会報0032号(2010年冬号) ]
2010年12月27日配信





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          ┃信┃┃州┃┃大┃┃学┃┃物┃┃理┃┃同┃┃窓┃┃会┃┃報┃  
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│田田田田田|          │★ SUPAA MAILMAGAZINE BULLETIN 2010年冬号 │ 
│田田田田田|            ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│田田田田田|──┐■━━■編集・発行/信大物理同窓会事務局■━━■
│田田田田田|田田|             (http://www.supaa.com/) 
│田田田田田|田田|〒390-8621松本市旭3-1-1 信州大学理学部物理教室内
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 ■「旧文理学部物理学科」+「理学部物理科学科」OB&学生と教員の会■
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 ○-- 新年5月に松本で開催の物理会総会の骨格が --○        ● 
  ○-- 固まりました。記念講演の講師として、本号 --○      _(__)_ 
  ○-- でも執筆の小河勝氏(文理18)が引き受けてく --○    _(______)_ 
  ○-- れました。橋下知事府政下の大阪府教育委員 --○    ( ________ ) 
  ○-- として、荒れた学校等の生徒の学力増進に奮 --○   [_____◇◆_____]
  ○-- 闘され実績を挙げておられます。テーマ性に --○     | ◆  ◇ |
 ○-- かんがみ、講演は市民への一般公開と決定。 --○   |◇/\◆|  
 ○-- 季節のいい松本に、ぜひ、ご参集ください。 --○

      【 I ・ N ・ D ・ E ・ X 】
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◇ ┃第┃14┃回┃信┃州┃大┃学┃物┃理┃会┃総┃会┃に┃つ┃い┃て┃
◇ 連載第10回【信州大学への追想】“あの日あの頃”
      「信州大学定年退職から放送大学へ」・・・・・・・・・・ 宮地 良彦
◇ 学生と卒業生の交流講座「物理学生への就職セミナー」第1回開催
   ■□ 学生向け案内と講師の発言要旨・・・・・・・・赤羽 徳英/藤 惇
  ・・・・・・・・・・・・・ 竹下 徹/鈴木 庸平/飯沼 和男/根建 恭典
◇ われらの信州―松高生が愛した自然 《松本高校に寄せて(5)》  小林 善哉
◇ 古いがあまり知られていないお話・・・・・・・・・・・・・ 三上 浩佳
◇ 「大阪府教育委員」就任、活動顛末紀《後編》・・・・・・・・ 小河 勝
◇ ┃留┃学┃生┃か┃ら┃の┃声(メッセージ)・・・・ 朴 相源/崔 原碩
◇ ■ 信州のスキーと相対論 ■( 前編 )・・・・・・・・・・ 上條 弘明
◇ ▼△ウィーン便り(6)△▼ アメリカ出張・・・・・・・・・ 大塚 直彦
◇ イベントご案内 ◎信州大学東京同窓会
◇ <再録>「同窓会費」は終身会費として1万円『会計細則』決まる!
◇ 編集後記

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  ┃第┃14┃回┃信┃州┃大┃学┃物┃理┃会┃総┃会┃に┃つ┃い┃て┃
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 信州大学物理会総会は毎年1回、松本と東京で交互に開催(間に名古屋開催
も1回あり)していますが、2011年は松本で開催します。概要が以下のように
決定しましたのでお知らせします。これまでとの主な変更点は、
(1)現役・引退にかかわらす、恩師全員に招待状を差し上げその出欠を事前
      にお知らせする 
(2)同窓会員には不参加の場合には、1000円のカンパを要請する 
(3)講演会は講師が全国的に有名な教育者なので一般に公開し、県・市の教
   育委員会や地元紙などの後援を得る(新設の理学部広報室と協働で)
 などとなっています。奮ってご参加いただきますよう、ご案内申し上げます。

                             2009年12月10日
                        記

(1)開催日時刻: 2011年5月28日(土)14:00〜18:00  
     ※講演会:14:00〜15:00、総会:15:10〜15:55、
     記念撮影:15:55〜16:05、懇親会16:10〜18:00
(2)会場: 信州大学理学部講義棟階段教室(予定)         
(3)記念講演講師:小河勝 氏(文理17回:大阪府教育委員)
(4)会貴:7,000円 学生:1,000円
(5)懇親会会場:理学部A棟 多目的ホール

 ●記念講演演題:「今日の学力の実態とモジュールの可能性──モジュール
         (短時間集中型反復学習法)による画期的な学力向上」
  《 講師略歴 》
  1964年 信州大学文理学部自然科学科物理入学、1970年卒業(文理18回生)
  1973年〜2006年 大阪市立加美中学校を皮切りに各中学校で理科教諭とし
    て活躍、荒れた中学生に基礎学力をつけることで荒れの克服に成功。
    1986年〜1987年 大阪市立教育センター(生活指導)、2005年3月退職
    退職後、和歌山大学非常勤講師(生活指導論)、松蔭女子大学非常勤講師、
    樟蔭学園教育アドバイザーを歴任。JICA専門家としてスリランカ義務教育
    課程改革に臨む。
    橋下徹大阪府知事の強い要請により2008年10月より大阪府教育委員

  ▼著書『未来を切り開く学力シリーズ 小河式プリント 中学数学基礎編』
  (文芸春秋社)『小河式 3・3モジュール』(文芸春秋社)ほか

  = 第14回信州大学物理会総会 幹事 = 
 ■赤羽徳英(文理10) ■藤惇(2S) ■渡辺規夫(4S) ■上條弘明(9S)
 ■志水久(91SA) ■河上陽介(01S) ■清水文崇(06S) 

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   【信州大学への追想】┃“┃あ┃の┃日┃あ┃の┃頃┃”┃ 連載第10回 
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                   ■ 信州大学定年退職から放送大学へ ■
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            宮地 良彦(信州大学名誉教授・物理同窓会名誉顧問)
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                  *
         平成2年4月は、私の信州大学生活に一応の終止符が打たれて、
   ●●    のんびりした自宅での毎日が始まった月である。4月2日に赤帽
  ●※●    引っ越し屋に頼んで書類や本を学校から自宅に運んでその整理
   ●\§   が一段落すると、あとは理学部と教養部でそれぞれ週1回の授
    ∞\   業以外は散歩と古本屋廻りに明け暮れるサンデー毎日である。

                   ● 放送大学学習センター勤務 ●

 こんな中で、放送大学の諏訪地区学習センターでの職はどうかと声をかけて
くださる方があり、喜んでお受けすることにした。放送大学は、放送を通じて
日本各地へ教育および生涯学習の機会を設けるという趣旨で、千葉市幕張にあ
る特殊法人放送大学学園が1983年に設置した大学である。

 当時の電波状況から、学習センターは電波が直接届く関東地区に限られてい
たのだが、山間を潜り抜けた電波をキャッチした諏訪ケーブルビジョンと諏訪
市の熱心な運動により、諏訪市にも学習センターが設置され、専任のセンター
長が置かれることになったものである。こうして平成2年10月1日から、上諏訪
駅前のスワプラザビルにある放送大学諏訪地区学習センターへ週4日ほど通勤
することになった。

 この放送大学学習センターでの経験は、私にとってまさにカルチャーショッ
クであった。それまでの国立大学では、学生はほとんど同年齢でその経歴もほ
とんど均質だが、放送大学では、学生の年齢、職歴さらには人生経歴も千差萬
別。高齢の学生が、拡大レンズを通して問題を読みながら、期末試験の解答に
専念する真摯な姿を目の当たりにして、それまで頭の上だけで理解していた生
涯教育というものの大きな意義を今更のように思い知らされる思いであった。

 これこそ今私に与えられた新しい仕事だ。なんとかしてこの人たちの努力に
報いるお手伝いをしたい。こうした気持ちから、私はそれまでの信州大学での
学年はじめとは全く異なる新しい気持ちで、1年後に予想されている集中面接
授業に向けて準備を始めていた。

 こんな私にとって青天の霹靂とでもいうべきことが起こったのは、新学期が
始まろうとする平成3年4月上旬のことであった。というのは、平成元年11月に
就任された赤羽太郎信州大学学長が、この3月に健康上の理由から辞意を表明
され、後任の学長選挙がおこなわれるに当たり、候補者として私を推薦したい
という理学部の有志教官からの申し出があったのである。私としてみれば、理
学部には前回の学長選挙で赤羽太郎氏と争われた黒田吉益教授がご健在である
ので、そのご意向を大切にしてほしいと答えておいたのだが、その後黒田先生
はご出馬なさらないことが判明し、理学部以外にも私を推薦してくださる学部
が複数あって、お受けすることにした。

                   ● 信州大学の学長選挙 ●

 平成3年当時の信州大学学長選考規定は次のとおりであった。

 最初に各学部教授会を通じて学長候補者の推薦を求め、おおむね10名前後の
候補者を確定する。次にこの候補者について、3名連記の第1次投票を行うこ
とにより上位6名を選出し、この6名に対して単記投票で第2次投票が行われ、
有効投票の過半数を得たものを当選とする。第2次投票で過半数を得た候補者
がないときは、上位2名について第3次投票を行い、決定しない場合には同じ
方法でさらに第4次投票を行う。これでもなお決定しない場合には、選挙手続
きをはじめからやり直す。なお、選挙の有権者は助手以上の全学部教官で、白
票は有効投票とされていた。

 この学長選考規定は、文理学部改組と教養部の統合が行われたことに伴って
昭和40年代に改正されたもので、当時私は理学部の委員として、改正に参加し
た。この委員会での最大の問題は助手の選挙権であった。それまで、信州大学
の人文、教育および教養部には、もともと助手定員がなかったし、医、工、農、
繊維学部では助手は教官とは認められておらず、学部長選挙の有権者でもなか
った。さらに助手を有権者とすると学部間の有権者数のアンバランスが大きく
なりすぎることを危惧する意見があった。

 このような状況から、学長選挙において助手を有権者とすることには全学的
に否定的な意見が強かった。これに対して、理学部では助手はすべて学士、あ
るいは修士や博士課程の修了者で博士学位の所有者も多かったし、他大学でも
理学部では助手は研究者であるというのが通念として認められていたから、私
は理学部の実情を説明して他学部の理解を求めるよう努力を続けた。

 理学部のこの主張に対して、助手の地位向上を目指す他学部の助手グループ
からも応援があり、最終的に助手も有権者として認められることになった。ま
た白票については、棄権とは違う意思表示として有効投票とすることもここで
確認された。この規定による選挙はその後別段支障もなく何回も実施されてき
たのであったが、今回の選挙では思わぬ波乱を引き起こすことになったのであ
った。

                   ● 選挙経過と意外な結末 ●

 それまでの何回かの学長選挙では、理学部から推薦した候補は、善戦はして
も当選するには至らなかった。こんなこともあって、推薦を受けた当時の私の
率直な気持ちは、「学長選挙に何回も出馬された黒田教授をはじめ、これまで
理学部が推薦した何人かの知名度の高い方ならばいざ知らず、私のようなもの
が有権者数の少ない理学部から出たとしても問題にはならないことは目に見え
ている。どうせ一発で終わりさ」というもので、まことにいい加減なものとい
うほかはない。そんなこともあって、放送大学の関係者には信州大学学長の選
挙について一切お話ししないまま、選挙が始まったのである。

 学部が県内各地に分散している信州大学では、投票の管理とその結果を有権
者に周知させるのに時間を要するので、投票は数日の間隔を置いて行われる。
平成4月20日に各学部から推薦された10名の候補者が確定したのを皮切りに、5
月2日の第1次(3名連記)投票により選出された小生を含む6名の候補者に対
して、5月8日の第2次(単記)投票の結果、思いがけないことに、上位2名と
して医学部長(当時)の永田哲士教授と宮地が残ることになったのである。

 この上位2名に対する5月10日の第3次投票では、両者の得票は僅差で、白
票を有効投票とするという選考規程によってともに過半数を得るには至らず、
引き続く5月14日の第4次投票でもやはり当選者を確定するには至らなかった。
そのため規定によって選挙は振り出しに戻ることになったのである。

 再開されたやり直し選挙は、5月17日の第1次投票、5月21日の第2次投票を
経て、再度上位2名に残った永田、宮地に対して5月24日の第3次投票、5月28
日の第4次投票が行われた。ところがその経過は前回と全く同様で、両者の順
位は投票のたびに入れ替わることが繰り返されたが、30票を超す白票を有効投
票とするという規程のために、ここでも学長を選出するには至らなかった。

 この状況に困惑した信州大学評議会は、事態を打開するための緊急避難措置
として、従来の学長選考規程を変更して白票は有効投票とせず過半数の得票を
もって当選とする決選投票を行うことを決定するとともに、永田、宮地の所信
を表明する文書を有権者に配布することとした。この評議
会決定に基づいて6月4日に実施された決選投票によって最
終的に宮地の当選が決定したのは、選挙が始まってから実       vvv
に1カ月以上を経た後のことである。かくして、一時は生   vvv (  )
涯教育の仕事に専念しようと思い定めていた放送大学勤務    ( ) ~|~
はわずか8カ月で終わり、信州大学へ今度は学長として戻    ~|~  | /
ることになったのであった。                 |/\|/

(文中の肩書は当時のもので、敬称は省略いたします。)   (以下次号)

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 □■  学生と卒業生の交流講座「物理学生への就職支援セミナー」  ■□
 □■  第1回開催(11月9日)■□ 学生向け案内と講師の発言要旨 ■□
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  *    *  ※ 。      学生賛助活動の一環として、また当同窓会の互助
*:.   .:   *.  *:  的機能を高める意味においても、長く懸案であった
 *  ※:  Д    ※     OBによる就職支援講座の第1回がついに開催されま
:*   \ (∵) /    *  した。おりしも、大学本部からこうした活動に対す
 *   (    )   *   る支援金の交付が始まったのも幸運でした。

 連絡の手違いがあって、対象学生(3年・修士1年)全員の出席はかないま
せんでしたが、アンケートによれば「たいへん良かった」との評価が圧倒的で、
来年以降も開催していく方向です。

 なお、学生から「志望企業に勤める先輩の連絡先を教えてほしい」との要望
が出されました。現在、理学部の卒業生名簿は各科同窓会で把握するようにな
っています。が、これを理学部同窓会が一括して管理するほうが合理的で、上
記学生などの要望にも対応しやすいのではないか、という理由から、物理同窓
会役員会としては理学部同窓会に対して、そのような検討に入るように申し入
れしました。

 ことしの物理科学科の就職はたいへんに厳しく、もし就職口のお心当たりの
ある方は、当会志水事務局長にご連絡いただければ幸いです。

 なお、今回のセミナーは地元紙、信濃毎日新聞と市民タイムスに報じられま
した。その記事を下記に掲載してしています。
           →( http://www.supaa.com/pages/osirase.html )

         (赤羽 徳英 藤 惇/物理同窓会事務局 学生賛助担当) 

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 □■ 学生への呼びかけ           竹下 徹(理学部物理科学科長)
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 社会の急速な多様化の中で、自己に適した職場を見出しそこに向かって進む
ためには、どのような点に留意すべきか、更に就職活動に直面したときの心得
に役立つように、物理同窓会の協力を得てこのセミナーを計画した.社会の第
一線で活躍しておられる物理学科先輩のお三方から、就職に関する経験談ある
いは現在なされている仕事の内容やその厳しさを承り、各自の進むべき方針決
定の参考にしてもらいたい.

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 □■ 講演要旨1     鈴木 庸平(理学01S/セイコーエプソン株式会社)
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 当時理系の卒業生は推薦によるものが中心だったが、大学での研究を生かし
たいと思っていた私は応募で製造業のエプソンを選んだ。面接の回数が多かっ
たのが印象的だった。社会人のイメージは人によって様々。皆さんはもう就職
活動を始められていると思いますが、基本的に企業はいい面しか伝えてくれな
い。本社の人事系は旧帝大を中心に回っていて、学内セミナーとかの説明に訪
れてはいるが、信大には来ていない。人事部の資料によれば経営理念を中心に
説明会をしているようだが、自分にはどういうものを作っているのかというこ
としか興味がなかった。その資料によると方向性、考え方、どういう社員を求
めているのかが見えてくる。

 わが社は「創造と挑戦」「信頼と誠実」が柱で、前者は上の人に言われたこと
だけをこなすのではだめで、自分で考え新しいものを発見し行動できる自立し
た社会人、後者は社会に出ると仕事は一人ではできない、人と協力し、頼まれ
た仕事を誠実にこなす、人の信頼を得られる社会人であること。この経営理念
に注目して就職活動をしてもらいたい。

 リーマンショック以降当社の売上げは3分の2に落ち込んでいる。流動的だ
が営業利益、純利益は重要な要素になる。現在、従業員数は単体(国内エプソ
ングループ)で約1万3千人、海外にはその約5倍の数。基本的に製造業の多
くは海外(中国およびアジア諸国)が中心になっている。英語力も必要とされ
る。事業紹介としては、家庭用(営業用)プリンター、プロジェクター、ディ
スプレイ、パチンコ機器の液晶表示、セイコーブランドの時計の他に眼鏡レン
ズ(加工前製品)、光学事業(あまり目立たないが)など。

 自分は光学事業に勤めるが、現在は開発から新製品の設計までいろんな業務
をこなしている。開発と言っても新技術を一人でまたは外部の人と協力しなが
ら行う。特許出願の仕事もあり、アイディアを開示する代わりに独占的な使用
権を得ること。ここで弁理士という、自分のアイディアをうまくまとめながら
的確に表現するのに必要な職業もあることを知る。新製品においては企画―設
計―量産化まで一貫性を持たせる。企画部門は技術的には詳しくないので、無
茶な希望を出してくることもあり、それをなるべく製品に反映するように努力
をするができない部分もある。

 プログラミングは大学時代は人にやってもらうこともあり、得意ではなかっ
たが、今はそうもいかないので自分で設計プログラムを組む。PC上で試行錯誤
を繰り返す。メガネレンズは人にかけてもらって、モニター試験をすることも
ある。遠近両用(多焦点、非球面、自由曲面)レンズは発展途上の技術なので、
視野や周辺の歪みが気になることもあり、微妙な調整をする技術。製品化に当
たって仕様書の作成も必要で医療機関に提供する以上、ISOやJIS等の規格もあ
り、薬事法に合った的確性を要する。また他社の特許を閲覧して権利を侵害し
ないように努めなければならない。現在、競合会社は保谷、ニコン、イシロー
ク、カールツアイス・・・英語の文献も見なければならないので、英語力も必
要だ。量産化に当たっては生産技術部門と技術的な打合せを重ねる。

 日常業務の他にも、後輩の指導もある。早く一人前にしたい会社側。自分ひ
とりの業務だけでなく、外部の人との交渉や協力も必要。コミュニケーション
力も養成しておく必要がある。人と仲良くする技術が肝要。学生時代と違い世
界が広がる。物理だけの知識では役に立たない。その根底にある物の考え方は
役立つが、法律やその他の知識も必要となる。就職の時は大学や理学部で学ん
だ事だけでなく、人間力が試される。

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 □■ 講演要旨2       飯沼 和男(理学3S/加茂暁星高等学校校長)
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  私は、教職の単位を取らないつもりであったが、父親から可能性を残すため、
取得を命じられ、物理を勉強したかったが諦めて物理の教員に採用された。内
地留学2度で、数学の免許を取得し、数学の教員に替わった。公立で36年、私
立で2年目、校長・理事職。

 日本は今、少子化で、地方の教員採用数は少なく、厳しい。都市部では、団
塊の世代が退職期を迎え、採用数が増加し、むしろ不足している場合もある。
公務員の採用数も地方財政の悪化からたいへん厳しいので、採用試験対策を確
実にしないと合格・採用は難しい。県・新潟市教育委員会に勤務した折、20代
の職員に聞くと大学4年次にダブルスクールで、または卒業後に公務員予備校
でほぼ全員が勉強したそうだ。

 北信越(福井・石川・富山・長野・新潟)でノーベル賞受賞者は福井・藤島
高校出身の南部陽一郎氏、富山中部高校出身の田中耕一氏である。他の地域に
先駆けて新潟からも受賞者が出てほしい。新潟県央地域(三条・燕・加茂・西
蒲)の燕・三条地域は洋食器生産等の中小企業が多く、輸出が盛んに行われて
いる。ノーベル賞授賞式後のレセプションで使用される洋食器が生産され、販
売されている。これに肖りたい。

 さて、教員採用試験について、過去の試験問題が情報公開され、県行政情報
センター(新潟県庁1F)でコピー(代別・解答含む)を入手可能である。専
門、教職・一般教養、小論文が課せられ、面接で模擬授業(15から20分で課題
について授業)、個人(諮問)・集団(課題について討議)などが実施される。
個人面接で、授業を受けたくない生徒がトイレに行きたいと申し出られたとき、
どのように指導するかなどの実践的な対応指導力も見られる。物理専攻の場合、
数学の教員免許を取得するとよい。なぜなら、今年、数学教員の採用数は理科
教員の採用数の5倍(15人)、理科教員でも物理専攻の採用がないこともある。

  教育には、(1)生徒の人生を心豊かなものに!(2)生徒が未来を託す有
為な人材に! という2点を踏まえ、生徒を自分の子どもと考え、勤務校に勤
めて誇りの持てる学校にしてほしい。指導には、生徒指導・教科指導・進路指
導・部活指導・学級担任としての指導等がある。生徒に積極的に関わり、生徒
に高く志を掲げて生きる人間に育ててほしい。また、保護者との関係も「モン
スターペアレント」「ヘリコプターペアレント」などの課題はあるが、信頼関
係を築くことを第一に考え、子どもを成長させる視点をぶれずに追求する中で、
毅然とした対応も辞さないである。

 教職員として留意すべきは、「学校(生徒・学生)から学校(教職員)へ」
で気持ちを切り替え、指導に失敗は許されないことを肝に銘じ、指導や指示に
責任を持ってやること。特に、校務分掌(教務・生徒指導・進路指導等)では
教職員の一員として責任を持って確実に、間違った指導は生徒にも学校にも迷
惑である。学級担任や部活顧問として、厳しく、優しく、親身になって生徒へ
対応する。生徒が苦しみながらも目標達成や成果を上げたり、私が悪性リンパ
腫(癌)で入院しているとき、職について最初に担任した生徒が遠方から見舞
いに来てくれ、教師冥利を感じた。

 現在、新潟県の高校進学率は99.3%で5年連続全国一位である。学区は廃止
され、全県一学区で、都市部では学力差が高校の数だけあり、低学力層が増加
し、PISA国際学力調査などで、日本の位置が低くなっている。学力の高い
層は目的意識を持ち、意欲や目標達成する行動力があるが、低い層では問題行
動などが多発する。それぞれの学校に独自の課題があり、生徒の成長を妨げる
が、それを解決する中で、教職員も成長する。 高校教育は「二極化」といわ
れ、高校教育の質の確保、規範意識や公共心の涵養など、様々な課題がある。
大学のユニバーサル化、就職難、キャリア教育などの課題に、新潟県は「オン
リーワンスクール事業」を掲げ、各学校が教育の質の向上をめざしている。私
学は、少子化の中で経営の危機を抱え、生徒募集で苦しんでいる。それが組合
意識の高揚に繋がり、解決の出口が見えなくなっている場合もある。私は、
「信頼される教育」を掲げ、教職員とともに「生徒が進学したい、保護者が進
学させたい学校」の目標へ努力し、十数年来減少を続けた入学者が今年、44人
増加に転じた。

 教職員一人ひとりも、多様な課題を抱える教育環境の中で苦闘している。軋
轢・葛藤の中で心を病む教職員や懲戒処分の厳格化でそれを受ける教職員が増
加している。周囲に良い人間関係を構築し、自分のみで背負い込まず、時に発
散させることを考えてほしい。

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 □■ 講演要旨3       根建 恭典(文理9回/株式会社エルサイト会長)
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 会社サイドから、大学生を選考するときには、100人の内5人が採用の目
途である。

「東洋経済」の記事で、就職率、教育力、財務力の観点から選んだ日本の大学
トップ100校が掲載されていた。信州大学は46位、国立大学43校の中で
は、23位となつていた。皆さんも信大生です。自信を持って欲しい。

 私は、就職するにあたり、日本一大きな会社かまたは日本一小さな会社(上
場寸前)を目指した。夏の実習は、日立製作所の戸塚工場で行い、最後に希望
勤務地を書かされた。第一から第三まで、全て中央研究所を記した。次にジェ
コーを受験、物理専攻だけで36人おり、問題は高校の物理が出題された。大
学受験には生物と化学だったので、高校の物理は苦手であった。自分が落ちる
のは良いが、信大生の能力が疑われるのは大変だと思い。問題の本質を考えて、
ベクトル解析にて回答した。結局3人が一次合格となり、面接試験となった。
成績が良くないと言われて、「私は成績の良いほうだ。何故なら4年で卒業で
きる」と答えた。「大学は4年ではないのですか」と尋ねられ、信大では、1
00人中55人が4年生、後は5年生、6年生、7年生、8年生であることを
話し、結局、私一人が合格した。

 結局、周りに惑わされず自分の気持ちを率直に言ったのが良かったと思いま
す。

 私の受けた教養課程の授業では、1/3くらいは漫談だった。それが、人間の
幅を広げたと思う。私は、学生時代あまり勉強をしたほうではなかったが、社
会に出てからは、必死で勉強をした。社会で起こる問題は、全て応用問題です。
これを全て解決しないといけない。最初は、研究部門であったが、短期間にあ
らゆる部署に回されたが、全て応用問題と理解して対処した。そして、44歳
で社長に指名された。

 皆さん、PCは出来ますか、(全員PCを持っている)それでは、成田に行き、海
外にいって、食事を取れるまでの英会話ができますか?(誰も挙手無し)皆さん
は、学校で10年間英語を勉強してきたのです。一週間あったら、それぐらい
の英会話は出来ると思います。この2点は、企業が採用する時の最低条件です。

 皆さんは、物理の基礎の上にPCあるいは英会話を積み上げる。更に企業は、
人間の集団で成り立っている。最も人間関係を重視している。学内に多くの友
人を持つことが大切です。10人の友達がいれば、それぞれが勉強しているこ
とを仕入れれば10人分の勉強ができる。一人では一人の勉強しかできない。
是非、皆さん何でも話せる友達を一人でも多く作りましょう。それが、社会に
出てから生きていく原点と考えて下さい。

 応用問題、私の入ったジェコーは、自動車時計の専門メーカーであった。時
計の駆動源はモーターであったが、アークで接点が欠損する。この課題を解決
しなければならなかった。その時、周期律表から3dバンドの電子が1個欠損し
ている遷移金属に着目し、合金を造り、実験したところ欠損はなくなり、早速、
国内、海外の特許申請をした。この時点で材料メーカーが、現在の価格で、1
億円を払って買い取ってくれた。

 私の研究室には、あらゆる学科(電気、機械、物理、化学、金属)で構成され
ており、社内の難しい問題は、全て持ち込まれ処理をしていた。そこで付いた
名前が、八百屋研究室と自称していた。そこの研究室長になった。そのころ会
社では、音叉時計を研究開発していた。シチズンは失敗し、市場から全品回収
し、セイコーは、開発を中止した。ジェコーも開発はしたものの製造するまで
には、苦労の連続であり、現在の金額で10億円に近い赤字を出して、役員会
で工場長は社長から大目玉をくって、「社内から好きな人間を好きなだけ連れ
て行って、工程を改善せよ」そのころ工場に行って製造ラインを見ると部品を
組立て検査をして、悪い製品は別のラインで解体し、その部品をまた使い回し
ていた。私は、工場長に「組立ラインの最後にプレスを置いて不良は潰して捨
てなさい」と申し上げた。そんな関係から工程改善を指名され、研究室から5
名を選び、工場の技術課のメンバー7名を私の直轄部隊とし、短期間で完成す
るために工場長の権限を持たしてもらい進めた。

 原則は、不良部品からは、良品は作れないことをメンバーに理解してもらい。
1.音叉の曲げ加工と熱処理工程の改善、2.熱処理加工から表面の歪み工程
の改善、3.音叉のスポット溶接部を形状変更と安定性。この結果、工程歩留
まりは、1ヶ月で45%から75%に改善、2ケ月目には75%から87%に改善し
た。そこで研究室のメンバーは、引き上げることにした。後は、工場の技術課
のメンバーで充分に90%台の品質に出来ると思い、最後は工場の人達に成果
を持って貰うことにした。翌月は、97%の歩留まりと安定した。その後、セ
イコーにOEMでこの製品を納品し、販売してもらうことになった。

 私にこんなことが出来たのも、物理の基礎があったからこそ、物事の基本を
見極め、本質を見抜くことができたのだと思う。皆さんも信州大学物理科出身
を誇りに思って、就職活動に励んで下さい。

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 ■ われらの信州―松高生が愛した自然 ■ 

                                《「前身」松本高校に寄せて(5) 最終回》
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      小林 善哉(理学2S/電子研究室・広島市立美鈴が丘高等学校) 
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      雲にうそぶく槍穂高 天馬の姿勇ましき
 (・>    
 /彡))    乗鞍白馬皆友ぞ 燃ゆる瞳をいかにせむ
/ /      
/"?k_       さらばいざ立て若き児(こ)よ 両手(もろて)を拡げよぢ登り

            男(お)の子の力ためし見む 信濃はうれし夏の国

 これは、大正10年に作られた松高寮歌「雲にうそぶく」の一節です。この
歌はれっきとした寮歌なのに、「山の歌」と誤解され、「山の歌」の歌集に載
せられたこともあったとか。また、松高生は、「東の美ヶ原と西の上高地は、
われらの校庭である」と豪語していたそうです。それくらい信州の自然に親し
んでいたということでしょう。

 今回は、松高生と信州の自然とのかかわりを見てみることにいたしましょう。
  ________________________________
  #  松高生と信州の自然
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 松高同窓生の寄稿集「われらの青春ここにありき」を開いてみると、信州の
自然に対する多くの賛辞を見出すことができます。東京に育った辻邦生氏(28
回文乙)は、「旧制高校時代の生活は知的な地平線を開いた以上に、感覚の、
魂全体の、領域を豊かにひろげる場になっていた」と述べ、次のように書いて
います。

        *            *           * 
 私が信州に暮らしたのは戦中から戦後にかけての時期で、東京から疎開して
きた人々でもなければ、山や谷を訪れる人はいなかった。敗戦で虚脱した後の
数年は、信州の美しい自然は、ただ、虚しい太陽の光に灼かれるか、荒涼とし
た秋の終わりの風に吹かれていた。私はそういう、現在では考えられもしない
無人の信州を―それゆえにいっそう自然の美しさを惜しげもなく示してくれた
信州を―気ままに心ゆくまで味わった。
(中略)
 列車は喘ぎ喘ぎ煙を吐きつづけ、煙は秋草に埋まる崖を茶色い帯になって流
れた。塩尻の長いトンネルをぬけると松本平が杉木立の間に見えた。たいてい
夕方の光が靄(もや)のただよいはじめた平らな盆地の上を流れていた。新緑
に光る上高地の森の奥を、こぼれる光を浴びながら、白樺の倒木や湿った苔を
踏んだ一日。三俣蓮華岳の山小屋で寝起きした一か月余の山住い。寒月の冴え
かかる長野善光寺。豪雨の中、熊笹の群落を横切っていった志賀高原の旅。暴
風雨に閉じ込められた槍ヶ岳の幾日。りんごを買いに歩いた豊科の村々。風に
吹かれて一人旅をした浅間北麓の秋。こうした信州の風物は、私の青春の日々
に折りこまれて、何か高貴な布地のような輝きを今なお失わない。
        *            *           * 

 また、松高から信大文理へと進んだ映画監督の熊井啓氏(30回文乙)
(注*1)は忘れがたい松高時代と自然のかかわりについて、次のように振り
返っています。

        *            *           * 
 良き友と良き師に恵まれた学生生活は、それだけで十分幸福なものだった。
さらに加えて、松高は、青春を過ごすにふさわしい風土をもつ松本にあった。
厳しい寒さの冬、一斉に木の花が咲き匂う春、アルプスの山々が招く夏、そし
て黄金の実りの秋。リルケやトーマス・マンの世界そのままの心を魅する自然
だった。こうした四季のけじめがはっきりした、それぞれに詩的なまでに美し
い松本の地にあったからこそ、松高時代はかくも忘れがたいのであろう。
        *            *           * 

   (注*1)=ベルリン国際映画祭銀熊賞やヴェネツィア国際映画祭銀獅
    子賞の各賞を受賞した日本を代表する社会派映画の巨匠
  ________________________________
  #  南極点到達と松高山岳部
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 このほかにも、「われらの青春ここにありき」の中で、信州の自然を忘れが
たい青春時代の思い出と感じている松高生は枚挙にいとまがありません。松高
に入学し、山に憧れ、山岳部に入り、登山法を研究し、ヒマラヤ遠征の基礎固
めをするまでにいたった松高生もいました。そして、それは戦後マナスル登攀
から南極観測へと繋がっていきました。その中心となったのは、村山雅美(18
文甲)、朝比奈菊雄(18理乙)、清水健二(21理乙)といった方々ですが、そ
の下地が信州の山々でつくられたことは大変興味深いものがあります。

 特に、村山雅美氏は第1次南極観測隊から南極観測に参加し、後に昭和43年、
第9次越冬隊を率いて日本人として初めて南極点に到達したことで知られてい
ます。私は、村山隊長が松高出身だということを最近まで知りませんでしたが、
そのことを知って驚くと同時に大変嬉しく思いました。

 また、「われらの青春ここにありき」には、山岳部の活動と遭難死した部員
についての手記が数多く載せられています。大橋周治氏(15回文乙)は手記
「山岳部の明暗」の中で、「戦後、村山らがマナスルから南極へと鵬翼をひろ
げる素地がそこでつくられたとするならば、夭折した伊藤(注*2)の遺志は
かなえられたというべきであろう」と述べています。
 
   (注*2)=伊藤達(16文乙) 昭和9年11月、穂高連峰の沢で遭難死。
    松高山岳部最初の遭難者。
  ________________________________
  #  松本市民の好意
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 村山雅美(まさよし)氏のことを語る上で、松本市本町の酒屋・米田屋に触
れないわけにはいきません。かつて、この店には畏敬の念を持って「鬼瓦」と
呼ばれていた女主人がいました。村山氏をはじめ山岳部員は登山に必要な物資
をここで調達したのです。村山氏はこう書いています。

        *            *           * 
 取り扱い以外の品物の、米、肉、野菜、燃料など、登山用具でなければ、何
でもかまわず注文すると、翌日は担ぎやすい荷姿で合宿に届けられてきた。図
々しくも「何時にハイヤー何台」とまで、米田屋さんに注文するのだ。しかも、
米田屋経由のすべての経費は、大学を出た時の出世払いという誠に都合のよい
取り決めを、先輩が残してくれたものである。米田屋の好意によって、われわ
れの山登りができたようなものだ。

 学期末試験が終わった夜の繰り込む先は裏町。翌早朝、合宿には米田屋差し
回しのハイヤーが待っている。頭も上がらない何人かを押し込み、一路アルプ
スへと豪勢なものだった。
        *            *           * 

 なんという厚かましさ、虫のよさでしょう。それでも、当時、このように松
高生を支える、想像を超えた市民の好意があったことには驚かされます。金子
鉄麿(29回文乙)は、「あの頃の松高生のだれもが、それぞれに大なり小な
り、松本市民の無償の好意を受けているはずだ。」と書いていますが、その通
りだったのでしょう。

 私は、今年の夏、松本に行き、偶然このお店の前を通りかかり、中に入って
松高山岳部の話を聞くことができました。この「鬼瓦」なる女主人はすでに亡
くなっておられましたが、ご家族の方は、この女主人のことを懐かしそうに、
「おばあちゃん」と呼んでいました。そして、代は変わっても、村山氏らの活
躍を誇らしく思っておられるようでした。
  ________________________________
  #  おわりに―よき師・よき友・よき自然
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 信大創立60周年、これは松高終焉60年ということでもあります。信大出身者
が年々増えていくのに対し、存命の松高出身者が年ごとに減っていくのは仕方
のないことかも知れませんが、とても寂しい気がします。松高がますます遠く
へ行ってしまうような気がしてなりません。

 私は1年にわたり、松高にかかわる様々な事件をとおして、松高生の青春模
様を紹介してきました。この間、松高の諸先輩とわれわれとの共通点と相違点
を考えてきました。

 松高と信大では学制の違い、時代背景の違いという決定的な違があります。
また、その時代でなければ体験できないこともあります。それでも、松高生の
寄稿集「われらの青春ここにありき」を読むとき、彼らの気持ちが自分のこと
のように思え、文句なく、「まったく同感!」と強く共鳴するのは、信州の美
しい自然に対する彼らの思いです。

 山岳高原都市・松本で青春時代を送った者なら、だれでも、いつまでも、あ
の美しい自然を忘れることはないでしょう。われわれも、日々、大学のキャン
パスからアルプスの山なみを眺めることができましたし、大学が休みであって
もなくても、機会を作っては野に山へと出かけて行ったのではないでしょうか。
松高は激動の時代を生き抜き、昭和25年に終焉を迎えましたが、松高生が親し
んだ信州の自然は無傷で信大生に「引き継がれた」のです。

 そして、高野国夫氏(27回理甲2)が次のように書いていることは、われわ
れ信大で学んだ者にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。

        *            *           * 
・・・・・戦争中に在学した先輩たちのように、死の影におびやかされるこ
となく、信州の美しい自然の中で、良き師に学び、良き友と語らい、何はばか
ることなき青春を過ごすことができたのである。
        *            *           * 

 これまで5回にわたり、松高のことをよく知らない者が、勝手なことを書い
て参りましたが、このシリーズは今回をもって終わりといたします。貴重なご
意見、ご感想をお寄せいただいた諸兄に感謝いたします。

 では、最後に、私も松高流で、 バッキャーロー
 
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     ■ 「大阪府教育委員」就任、活動顛末紀  ■ 《後編》
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        小河 勝(文理18/鷺坂研究室・大阪府教育委員 奈良県在住)
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  |)     小河さんが執筆した中学生向けの国語、算数の教材「小河式プ
'―o―,   リント」がベストセラーになったことは記憶に新しい。「百マス
 (| \     計算」で有名な陰山英男氏と共著を著わすなど、「ゆとり教育」
      に警鐘を鳴らして、小・中学生の基礎学力向上に取り組んでおら
月から、橋下徹・大阪府知事の要請を受けて大阪府教育委員会委員に就任され
た経緯を書いていただいた。今回は「小河式メソッド」の真髄とはなにか、そ
れによって具体的な成果が得られたことについて。橋下知事とのエピソードも。
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   ◎ モジュールの時間編成による授業の組み替え実践
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 私は1980年ごろから毎日同じ内容を短時間、繰り返しさせるという学習法を
開発して実践してきておりました。それが極めて効果的で成果も上がるという
ことを実感してきたからです。

 今ではモジュールと呼ぶこの方法が新しい指導要領にも認められています。
(モジュールという言葉は時間の組み替え、再編が本来の意味です。例えば50
分間の授業を10分間ずつ分けて毎日組み込みますと5日間、10分間の帯状の時
間割りが組めます。これで1時間分の授業が消化できるわけです)この帯状の
時間編成を大阪府下の学校で実践してもらおうというわけです。

 先ずつまずき調査のテスト用紙、集計ソフトの準備、その調査の開始、をし
なければなりません。そしてその次の段階の国語、算数のモジュールの教材の
準備です。ところが陰山君は多忙につき、その間いないという状況が分かりま
した。とんでもないことです。結局僕が委員会事務局の5人のメンバーを指導
して全部作らざるを得なかったのでした。

 ここで意見が対立しました。知事も陰山君も各学校の校長に翌年の4月の学
力テストに成果を上げることを目指して強制的にこのモジュールの時間編成と
実践を現場に強く求めるべきだというのです。

 僕はあくまでも現場の教師たちの考えや意見を聞き、それに基づいて合意形
成を優先しなければならないと主張しました。

 この考えの根本は教師をどう見るかというところにあります。学校教育法に
は「教育は教諭がこれを司る」とあります。すなわち教育の実践は校長でも教
頭でも自治体の首長でもなく、直接教師が行うべきものと定めているのです。

 つまり教師は教育の専門職であり、他のものがこの間に介在してはならない
と。料から専門家である教師にはその主体性を無視してはならない、先ず理解
を、そして合意してもらうことが先決だと考えました。

 僕自身、モジュールの提案は積極的に行うべきだと考えていました。小学校
の教師たちは納得すれば自分の教室でどんどん実践できるのです。しかし中学
校の教師たちはそうは行きません。教科の違うものが別の教科を教えることは
当時認められていませんし(2009年からは移行措置として認められる)、教材
が各学校でダウンロードできる1月末はそれどころではありません。受験の真
っ只中です。学校の時間編成を変えるための協議の時間などは取れないのです。

 2009年4月全国学力テストが実施されました。ここで大阪府の小学校は3点
ほど平均点の偏差値がアップしましたが中学校は変化なしでした。これは以上
の事情からお分かりのように当然の結果なのです。むしろ小学校のアップは驚
嘆すべき意味を持ちます。堺市、大阪市は政令都市でこの取り組みには参加し
ていません。つまり大阪府下の両市を除く7割の小学校のうち、合意した一部
の教師の取り組みだけでこの成果が生まれたのです。もし全小学校が1年間実
践するならどんな大きな成果が出るでしょう。

   ◎ 荒れている学校、51校から手が挙がった
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 特に新しいメソッドを導入するとき大事な点は3つあります。
(1) 生徒が乗る
(2) 必ず効果が上がる
(3) 教師が楽に実践できる、ということです。

 特に3番目の内容が大事です。誰でもどこでもできることが大事なのです。
教師が歯を食いしばって取り組むような実践はだめ。独身者や若者しかできな
いものではだめなのです。

 この点モジュールはこの3点を満たしていました。私には話せば必ず、誰で
も同意してもらえるという自信がありました。私は急がなくとも先ずモデル校
で実現し、それを具体的な成果として学び時間をかければ自然に広がるという
主張をしました。しかし「合意形成さえすればよい」という私の主張に対して
知事や陰山君の意見は正面からぶつかりました。私の意見は一見、軟弱です。
結局会議では後退していきました。

 しかし当然のことながら現実の成果はなかなか進みませんでした。一方で20
08年の12月から自ら実践したいと手を挙げた学校がありました。小学校35校、
中学校16校、合計51校です。これらはどこも荒れていました。荒れていて何を
どうしたらいいかわからない状態だったのです。この51校に私たちはモジュー
ルの実践方法を指導しました。その後、彼らはまるで・藁をもすがる″という
思いで実践しつづけたのです。

 昨年12月その51校で国語と数学のつまずきチェックの調査をしました。これ
は1年前、取り組み始めの段階、2008年12月に行った調査と同じ問題でした。
もちろん熟語や数字は変えてあります。つまり、1年間の取り組みでつまずき
がどう変化したかを見たのです。結果は国語、数学、ともに平均点が10ポイン
ト前後上がっていました。

 しかも各校からのアンケートを見ますと予想通り、生徒たちの学習態度が明
白に変化したというのです。落ち着きを持ち、学習に集中するようになったと。

 これは大きいことでした。

 知事とは毎日メールでやりとりしておりますが、早速教育委員あての御礼の
メールが来ました。そこには、「ありがとう」の後に「小河先生の戦略どおり
ですね」と書かれていました。

 さて、これからが本番の勝負です。今年から51校の実践を基礎にこれを周辺
の学校へ普及していかねばなりません。その対象校今年度は681校、堺市、大
阪市を除く全大阪府下の約7割の学校です。1校75万円の予算ですから全部で
約5億円が組まれています。しかしすでにもっとも困難な学校で成果が出てい
るわけです。この成果を広げていくだけですから私はそれほど困難な事業では
ないと考えています。

   ◎ さて橋下知事について
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 われわれの年齢の者は習性として過度に周りとギャップのある内容をはっき
りと口にすることはしません。「和をもって尊しと為す」……温和であること
を好み、対立を避けようとする傾向があります。しかし彼はそうではありませ
ん。

 法律家特有の気質というのでしょうか、論理で割り切れるなら周りがどうあ
れ、物事をはっきりと言い、ぶち負かしてでも突き進むところがあります。こ
うしたところのわかりやすさとともに官僚的ではない、庶民感覚で判断しやす
い思考方法のよさというものがあります。

 例えば大阪府の教育委員会がこれまで築いてきた官僚的な方法や制度の不合
理さ、無駄なところに対して彼は仮借ない批判をしてとうとうそれを打開して
きたものが数多くあります。こういうところは大いに賛同するのです。もちろ
ん批判的といえどもそれは体制を強国に維持する枠内でのものです。

 一方、何か通常ではない面があります。彼の身につけた手法がメディアを利
用するところです。知事は世論に訴える場合、完全にテレビカメラを意識し、
そこから直接世論に訴えます。実際この面では他の追随を許さない強さがある
のですが、問題はこの動きをとめることができないということです。

 これは周りの誰もが悩んでいる問題で事実防ぎようがありません。打ち合わ
せも十分ないままことが公に進んでしまうのですから。

 しかも彼は恐ろしいほどタフです。毎日、多分、数十以上の部局にメールを
打ち続けているのです。彼にとっては私との議論などを蟻の小便ほどの小さな
ものにちがいありません。今後も私の任期中(あと2年)この押し合いへし合
いは続かざるを得ないでしょう。

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 □■□□■□ ┃留┃学┃生┃か┃ら┃の┃声(メッセージ) □■□
        ┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━
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     現在、物理科学科には2名の留学生がいます。いずれも4年生で、
    もうすぐ卒業。信大物理での体験はどうだったのか、現在の心境など
    を依頼したところ、流暢な日本語での原稿が届きました。
    
 * * * * * * * * * * * * * *  /@) ⊃\/| 
 
 ■  4年間の日本での大学生活を終えて            > ⊃⊃/\|
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              朴 相源(07s/物性理論 韓国・ソウル出身)
----------------------------------------------------------------------
 高校三年生のある日、日本留学生を選抜する公募が学校に掲示された。その
とき私の目標は韓国の大学に入ることだけだった。留学は裕福な家庭の子供が
選べる道だと思っていて、実際に私に機会が訪れると思ってはいなかった。

 日本は韓国と地理的にも近くて、歴史的にもいろいろ影響を及ぼし合ってい
る。私は中学生のごろ、通学に時間がかかって暇つぶしで日本の漫画を読んで
いた。井の中の蛙のままにいたくなかった私は急であったが日本への留学を決
めた。

 高校を卒業し翌年の10月、初めて日本に来た。そして、初めて住んだとこ
ろは信州大学のこまくさ寮だった。こまくさ寮は信州大学の一年生向けの寮で、
国内対象だったため、私と一緒に来たチェを除いては皆、日本人だった。二人
一部屋だったが、空いている部屋が別々にあったのでチェと私は分かれて配属
され、日本での生活が始まった。

 今のこまくさ寮は改造してきれいになったが、そのときは非常に汚くて‘韓
国より先進国の日本だと聞いたのに、なんじゃこれ!’と思いきや、部屋を汚
くする特技を持っている自分なので負担なくていいだろうと思った。しかし、
そのあとすぐ気付いたのは周りが皆日本人でコミュニケーションの難しいとい
うことだった。

 日本に来る前に半年間日本語の勉強はしたが、教科書で「半端ねー」みたい
な言い方や表現は書いてなかったし、しかも関西人が多かったので「わからへ
ん」みたいな方言聞くと本当に意味がわからない状態だった。「飲み物とって」
という言葉も命令する語調だと思って、‘こいついきなり喧嘩売ってるんかよ。
何があったんだ’と思ったときもある。

 幸いに皆優しい人で新しい表現を勉強するとすぐその場で確かめられる楽し
さで、わくわくしながら日本語の勉強に励んでいた。毎日ご飯を食べに一緒に
食堂に行ったり、お風呂も一緒に入って騒いだりもした。そんなある日、友達
が飲み物にストローを入れて飲んでいた。違う友達が貸してって言ってストロ
ーをそのまま吸うことに変だと思った。清潔好きな日本人だと思ったのにその
まま回すのかよ! 人のものを飲むのに汚くするのは迷惑ではないかと思って
口を当てずに飲む私の飲み方をパク飲みってむしろからかわれたりした。

 一方、鍋とかはちゃんと自分の皿があって移して食べてた。日本人と韓国人
って清潔の基準が違ったりすることがわかった。

 そしてようやく2007年信州大学に入学した。学部の友達や一般教養の授業で
出会った友達、サークルにも入って新しい友達がたくさんできた。1年生のと
き、一般教養で日韓関連の授業を聞いた。韓国の実況を話したり、韓国と日本
の間の歴史や新しいニュースも時間をかけて深く考えられた。そうしたなか、
韓国に興味のある学生や社会人とも仲良くなって今も世話になっている。

 2年生までよさこいサークル「和っしょい」で活動した。せっかく日本に来
たから、日本の文化を学ぶためには自らお祭りに参加するサークル入るのが一
番だと思ってからだ。和っしょいは学年別30人程度の規模の大きいサークルで
多くの人と友達になれた。また、県内や、名古屋、静岡などのお祭りも参加し
てお祭りを盛り上げる楽しさも覚えたり楽しい日本を作るために頑張ってるほ
かのよさこいチームと交流もできた。特に名古屋ど真ん中祭りは約200チームが
参加し、大賞をおいて争いが行われるが、私の参加した2年連続準大賞の感動
は今でも忘れられない。

 3年生になってからは物理の勉強に集中しようとサークルをやめた。そして
代わりに時間の調節の容易な水泳を始めた。最初は全然泳げなかった私も定期
的にプールに行ったら、プールでも友達ができて教えてもらったりし、今は結
構泳げるようになった。3年生の頃は学部の友達とよく麻雀もしていた。韓国
で友達と会うとよくネットカフェに行ってゲームで何時間も過ごしたが、日本
でも麻雀で何回か夜明かしたりし、男は皆こんなもんかと思った。

 4年生になってからは信大の物性物理研究室に配属された。大学で物理科学
科に入ったのもそもそも大学院から工学を専攻する基盤をつくるためだったの
で、大学院への進学のため勉強に励んだ。そして研究室の先生たちの支えで無
事に合格し、来年からは東京工業大学大学院で勉強するようになった。今は卒
業研究をしている。

 最初偶然に私に訪れた機会で、世界を見たいと思って日本に留学し、過ごし
た時間はとても楽しかった。歴史で学んだ日本はアジアに対し悪いことをした
が、私の出会った今実際日本に住んでいる人々はいい人だった。多くの日本人
と出会い、こんなに近くにある国同士でも人々の考え方は違うのに世界はどう
なんだろうと考えたらわくわくしてくる。

 今まで私の4年間の日本での留学は多くの人々によって支えられてきた。終
わりにその人々への感謝の言葉を伝えたい。ありがとうございます。

* * * * * * * * * * * * * *  /@) ⊃\/| 
 
 ■  4年間の留学生活についての感想              > ⊃⊃/\|
----------------------------------------------------------------------
        崔 原碩(07s/高エネルギー実験 韓国・キョンギド出身)
----------------------------------------------------------------------
 今年で私が日本に留学してからもう4年目になります。自分は、そこまで活
発に活動するような人ではないのですが、準社会人と言われる大学生になって
からは高校のときまでと比べ、必然的に色々な人に合ってきたと思います。留
学生という、特に日本と昔から接点が多かった韓国からの留学生といる立場に
いるため、初めて会った日本人の方とでも割と話しやすかったのですけど、そ
ういうときに高い確率で聞かれる質問は、「なぜ、日本に留学したの?」とい
う質問が一番多かったと思います。

 もちろん、“留学”は相手の国で学ぶことがあるからするものです。私の場
合は、当然物理となりますけど、どの国も同じですが特に韓国では短期間で成
果を出せる分野でないと支援されにくいので、物理の分野は遅れを取っていま
す。それで、物理を勉強するには、もっと物理が盛んに研究されている外国
(この場合は日本)で勉強した方がいいと思いました。ほとんどの(理系の)
留学生はこのように答えるのでしょう。

 しかし、これは“留学”に重点を置いて見たときの話で、多分今までこの質
問をした皆さんが聞きたかったのは、なぜ“日本”なのかが聞きたかったのだ
と思います。上の理由だと、「別に日本じゃなくてもよかったってこと?」と
思う方が多いと思います。

 うそはつきたくないので素直に答えると、確かにそうです。科学に国境はな
いと言われている分“物理”は別に日本だけがしているわけではなく、他にも
物理が進んでいる国はあります。そもそも、研究生や大学院生のようなレベル
での留学だったら確実な理由もありえますが、高校生の時点ではそこまで確実
な理由を持った上で留学する国を決める学生などほとんどいないと思います。
たまたま留学できる“接点”があって、たまたまその国が“日本”だっただけ
です。

 自分の場合、その接点は「日韓共同理工系留学生プログラム」という、両国
の政府が企画したプログラムの募集があり、かなりいい条件を提示しているこ
とを知ったことでした。ただし、一つだけ言いたいのは、個人的にはそのよう
な“接点”があったことが一番大事なところだと思う、ということです。人生
のどのような場面でも物事が起こるにはトリガー (trigger) が必要なものだと
思います。

 さて、留学のきっかけから離れて日本での、この大学での4年間の留学生活
の感想について話してみると、結果論ではありますがアメリカとか、ヨーロッ
パに留学するよりは色々な経験ができたのではないかと思います。生活は大し
た差はないので、主に人との関係からのものが多かったと思います。

 韓国では、日本のことをよく、「近いが遠い国」と言います。これは、距離
的に近くても、歴史的に互いに相容れないところを持つからです。アメリカや
ヨーロッパに留学したとしても、そこではまた違う経験ができたはずです。し
かし、小学生のときの南米のコロンビア(Comonbia)での生活経験から考えて
みると、おそらくその経験は“互いに持っていないところ”に重みがあって、
“互いに違うところ”の経験ではないと思います。歴史的に接点が少ない分、
違う意見を持つ可能性も少ないからです。

 しかし、歴史的に接点が多かった日本の人たちとは、様々なところで意見の
違いがあります。これは、歴史というものは物理とは違って可変的で、それが
正しいか間違っているかから離れて、基本的に自分たちに“都合のいいもの”
になりやすいが故のものだと思います。そのような“自分たちに都合のいい意
見”を違う国籍を持つ人とぶつかり合うのは、中々経験できないものです。

 私は、今まで日本を含め五ヶ国で親の仕事、旅行などで滞在したことがあり
ますけれど、このような経験は日本でしかできませんでした。たまには互いに
怒ったり、言い争いになったりするかも知れませんが、ただただマスコミや本
のような、“他人を通しての情報”を聞いたり見たりするよりはずっと有意義
な経験だったと思います。

 また、このような“互いに違う”ところもあるけれど、彼らの中でも意見の
違いが存在すること、また違う第3者と今度は逆転された立場からの論争があ
るところ、驚くほど同じところや似ているところもあることを直接見て、聞く
ことができたのが、さらにその経験の大事さを感じさせます。
 ここでは全部は語れないので少々飛躍があるかも知れませんけど、これらの
経験から私が現在出した結論(感想)は「どこに行ってもやはり人は、何故互
いを集団で分けて考えているのか理解できないぐらい同じ人だ」ということで
す。

 そういう意味で、自分の4年間の大学生活で一番やってよかったと思う選択
はサークルに入ったことと、物理科の“自習ゼミ”に入った事でした。高校の
ときまではあまりにも勉強ばかりしていたもので、大学に入ったらサークルに
入ってみようと思ったのですが、勉強とは全く関係ない、純粋に趣味が合う人
々と上記の話を含め色々な話ができて、また色々な人々を見て、多様な生き方
があることが分かりました。

 2年まではサークル中心の生活をしていましたが、2年の後半あたりからは
自習ゼミの人達との付き合いができて。3年から自習ゼミに入りました。特に、
自習ゼミのメンバーたちにはここ2年間本当にお世話になりました。自習ゼミ
は2年間少しおろそかにしていた勉学にも役に立ちましたし、またそこで違う
味の人間関係が味わえたと思います。多分、自習ゼミに入っていなかったら進
路も大きく変わったと思います。

 しかし、やはりすべてがうまくいったわけではないので反省点もありました。
サークルや自習ゼミで日本の人との関係が作れたのはよかったのですが、その
分、他の留学生たちとの関係はうまく作れませんでした。また勉学にもう少し
真面目に力を入れることができていたらよかったと思います。けれど、言い訳
かも知れませんが、何もかもうまくはできないのがまた人間であり、そうやっ
て成長していくものだと考えると、決して悪くはない4年間の留学生活だったと
思います。

 また、信州での留学生活は今年で終わりますが、来年からはまた違うところ
での2年間が待っているので、ここ4年間の経験を教訓としてもう少しうまく
やっていきたいと思っています。

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 ■ 信州のスキーと相対論 ■ ( 前編 )   
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                             上條 弘明(理学9S/電子研究室・松本市在住) 
----------------------------------------------------------------------
 \|/            松本に生まれ育ち地元の信大理学部物理学科
  ●   / ̄\ ⊂⌒⊃   に入学。在学当時はおおらかにスキーと登山に
 /|\ /   \⊂⊃   熱中した時期だった。卒業後も松本に住みスキ
 ⊂⌒⌒⌒⊃/人\\\    ーは楽しい趣味になっている。そこで、スキー
 ⊂⌒⌒⌒⌒⌒⊃\\\\   と物理学との相関を考察してみた。今回と次号
               の2回にわたってご紹介しよう。 

      A スキー運動と技術
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 カービングスキー板が出始め頃、SAJスキー教程が最新なる「水平面角付
け理論」により改訂され混乱した状況になった。この時、スキー仲間と共にス
キー運動と技術の整理整頓をした。以下は要旨で抵抗と雪質は無視する。

   (1)基本の平面上のパラレルターン

 まずスキー板に着目する。スキー板に荷重すると板は変形し、サイドカーブ
曲線の一部に沿って斜面上をスキー板は軌道曲線を描く。この時サイドカーブ
曲線の曲率は曲率半径の逆数で捩率は斜面より曲線の立ち上がりぐあいを表わ
す。フルネーセレーの公式「平面曲線は曲率より空間曲線は曲率と捩率より決
定される」より平面斜上のスキー軌道は曲率のみで決定される。

 次にスキーヤーに着目しよう。斜面上で静止した人から見た大域的な座標系
の場合。重力を斜面方向(自由落下FL方向)と斜面垂直方向に分解すると力学
的等価原理により斜面上のスキー運動は加速する電車内の運動に等しい。つま
り「斜面=斜面方向の重力成分+水平面」である。スキー運動で重力成分とは
斜面上の自由落下、直滑降である。また斜度0°の水平面でスキー板を角付け
した場合は垂直抗力を軸とした等速円錐振子を描く。

 この2つの運動の和は斜面上で不等速円錐振子になり、スキー板は軌道曲線
の接線方向に加速しサイドカーブ曲線の曲率半径で包絡円を描く。大域的情報
は視線による。

 一方スキーと共に動く人から見た局所的な場合(スキーヤー系 動標構)。斜
面垂直方向では重力成分と垂直抗力と遠心力(慣性力)の合力が0で静止。斜面
上のスキー板は長軸方向に加速する。数学の視点では平面斜面のスキー軌道曲
線は「フルネーセレーの公式+動標構」で決まる。局所的とは濃霧や夜間の視
界不良の状況でのスキーが典型的である。

 以上より、スキー運動を力学的に分析すればスキー軌道を自由に合理的に描
くスキーの基本技術は変わらない。つまり、基本的な中間姿勢・外向傾姿勢・
外足荷重・脚部の操作・立ち上がり動作よりスキー軌道や状況の変化に対応す
るのである。スキー板の進化には姿勢や操作を微調整する。欧州のスキーでは
基本技術を変えていない。

 面白い例を一言。2点間を結ぶ最速曲線は直線ではなくサイクロイド曲線で
ある。力学的エネルギー保存則より求められ等時性が厳密に成り立つ。

   (2) 曲面斜面上のパラレルターン

 曲面斜面は平面斜面と同じく力学的等価原理より「斜面=斜面方向の重力成
分+曲面」である。この場合、加速する電車の床は水平面ではなく曲面。始め
にスキー軌道における曲面斜面の形を分類しよう。曲面でガウス曲率、測地線、
接平面に着目する。

 測地線は局所的に2点間の最短曲線で平面の直線に対応し測地的曲率が0。
測地線 接平面 ガウス曲率はガウスの基本定理により内在性(第一基本形式計
量テンソル 接平面の内積)であり、捩率は外在性(第二基本形式 接平面と曲
面のずれ)である。   

 空間の直線運動より得られる曲面が線織面でこのうちガウス曲率が恒等的に
0の曲面が可展面である。展開図が可能。数学の定理より「錐面と柱面と接線
曲面は可展面。逆に、一般の可展面はこれらをなめらかに継ぎ合わせた形」で
ある。局所的に平面に同相。ハーフパイプやウェーブは円柱面でスキークロス
コースは円錐面(バンク)や接線曲面であり可展面で構成されている。球面はガ
ウス曲率が0でなく可展面ではない。

 コブ斜面について。コブ斜面は降雪後のなめらかな斜面をスキー板で削った
状況だから初めの斜面、即ちコブの頭を結んだ包絡面上でのスキーが合理的で
ある。包絡面とは「曲面の接平面族が同一の曲面」。

 一般の曲面斜面上ではスキー軌道上の接ベクトルのレビチベタ平行移動によ
り接平面族が接続されて包絡面(可展面)となり全体のスキー運動となる。曲線
の展開。この大域的なスキー運動への対応は広い視野と可変なエッヂング−ギ
ルランデなど−による。

 次に、曲面斜面での斜面方向の重力成分、即ち自由落下について。局所的に
は接平面上でFL方向の測地線が自由落下方向で基準である。接平面と測地線
は接続され大域的な測地線ライン即ち、直滑降ラインとなる。

 以上により力学的等価原理と曲面の分析を用いれば曲面斜面のスキー運動は、
「平面斜面上のパラレルターン」に帰着できる。

 自由落下とガウス曲率について一言。曲面斜面上の近傍より出発した2人が
同時に自由落下、直滑降をする。斜面が平面ならば2人は平行に移動するが、
曲面では2人は離れるか近づいて衝突する。この時、局所的には一方のスキー
ヤーは力(潮汐力)が働いたと観測する。原因は斜面が曲がっているにもかかわ
らず。これは潮汐力加速度の方程式で測地線の偏差を表わしている。

 ガウス曲率は内在性より曲面でガウスボネの定理「曲面を三角形に分割すれ
ば局所的に全ガウス曲率+測地的曲率和+外角和=2π」を使い測定(観測)可
能量である。さらにガウスボネの定理の大域版は境界がない場合「全ガウス曲
率=オイラー数」であり、解析的不変量(ガウス曲率)=位相的不変量(オイラ
ー数)の指数定理である。指数定理を物理に応用した例でもある。
                             (以下次号)

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  ┏━┏━┏━┏━┏━┏━┏━┏━┏━┏━┏━ ┏━┏━┏━
   ┃大┃塚┃直┃彦┃の┃ウ┃ィ┃ー┃ン┃便┃り ┃第┃6┃回
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  ◎アメリカ出張
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              大塚 直彦(理学24S/国際原子力機関・IAEA勤務)
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 今日のウィーンは日中マイナス6度までしか上がらない真冬日となりました。
12月に入ってもドナウ川はまだ凍りませんが、月の変わり目に結構な降雪があ
りました。札幌暮らしの長かった私にはそんなに大変な量には思われません。
しかし、ウィーンでは60年代70年代でこそこういう降雪もあれ、最近としては
記録的な大雪だったようです。昨日は車を降り積もった雪から救い出す作業を
ウィーンに来て初めてやりました。

 さて、今回はウィーン便りと題しつつも、アメリカ出張のお話を書きたいと
思います。                       (14DEC.2010)

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   ■ ブルックヘブン国立研究所
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     o     アメリカにはエネルギー省(DOE)と呼ばれる組織があり、
   ⊂二二⊃   そこが原子核・素粒子物理の加速器を有する国立研究所を所
  ⊂|   |⊃  有する官庁となっています。今回はその中の一つ、ブルック
   |___|    ヘブン国立研究所(BNL)に出かけてきました。私とこの研究、
   ()()()()()   所の縁は院生時代に遡ります。
        
 当時「高エネルギー原子核衝突」なる現象を研究課題として与えられていた
私は、この研究所の加速器で得られた原子核衝突由来の粒子エネルギー分布を
研究してました。この研究分野では数年に一度クォーク物質("Quark Matter")
という国際会議が開催され、私の学位取得直前(2001年)にはこの研究所近くの
ストニーブルーク大学での開催でした。

 それまで海外で行われる国際会議というものに出たことのなかった私でした
が、当時の指導教官が行って来い、と気前よく研究費を出してくれることにな
りました。この初の渡米で会議の間に宿泊したのが、研究所内のコンプトンハ
ウスという寮でした。物理の職のアテのなかった私には、この研究所の訪問は
これが最初で最後のはずでした。

 ところが、その後、2004年、そして2010年と2度もこの研究所を訪ねること
になり、そのようなことから、この研究所とはご縁を感じています。

 今回の訪問先は、この研究所内の国立核データセンター(NNDC)と呼ばれると
ころでした。

 ぜひ一度、と長年招待してくれていた当時のセンター長が退職して帰国する
ことになり、これを果たすべく、彼が関心を持つ誤差評価に関する材料を用意
しての出張でした。

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   ■ いわゆる誤差の相関について
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 読者の皆さんは物理学科の出身ですから、実験で誤差を評価された経験をお
持ちでしょう。その誤差をどのようにして求めたかご記憶でしょうか?

 ある物差しで物の長さを測定する場合、多数回測定を繰り返すことで測定の
不確かさを段々に減らせます。これがいわゆる統計誤差で、僕が学生実験の時
に導出したと記憶しているのはこの誤差だったと思います。しかし、物差しは
その目盛り自身が一定の誤差を持っていますから、これによる測定の不確かさ
は、測定を何度繰り返しても減らすことができません。

 各目盛りが1%づつずれていると、測った長さもやはり1%長い方にずれてしま
います。このように測定回数を増やしても改善できない誤差を系統誤差と
言います。この物差しで複数のものを測るとその結果は全て同じ方にず
れてしまいますし、その物差しを誰かにあげると、もらった人が測る長さにも、
同じようにずれが生じます。(余り正確な説明ではないかも知れませんが)こ
れが誤差の相関と呼ばれる現象です。

 核データ分野では、過去の様々な測定結果を検討して確からしい値を決めま
すが、それぞれの測定結果がもつ相関をどう将来の利用に備え保存するかが課
題となってます。

 ただ、測定結果を論文に公表する実験屋全てがこの問題を意識してるとも限
らず、そういう方々に、誤差をより良い形で報告してもらうことも目下の課題
です。

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   ■ 日本との距離感を感じないところ
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 アメリカの原子核関係の国立研究所というと辺鄙なところを想像しがちです
が、ブルックヘブン国立研究所はマンハッタンから近郊電車で2時間ほどで到
着できます。また、ロングアイランド高速道路により車なら国際空港からも大
変便利に行けます。カキなど海の幸に恵まれ、また約30年と歴史は浅いものの
ワイナリーも30余を数えます。

 研究所周辺は森が大変に豊かで、鹿やら七面鳥らしき鳥が構内をうろついて
います。ウィーン同様に危険なダニが生息しているらしく、林縁至るところに
警告板があります。徒歩で確かめた限り研究所周囲に柵はなく「無断侵入禁止」
の立て札があるのみですが、勝手に侵入しようものなら、ダニの攻撃を容赦な
く受けるのではないか、と思われます。

 研究所には衝突型高エネルギー原子核加速器(RHIC)で働く日本人の若手職員
が居られ、お会いして、研究所の勤務環境や生活環境について色々と話を伺う
ことができました。職員には定年制度がなく、(プロジェクトの制約など除け
ば)いつまでも働けるそうです。

 ここのデータセンターにも70を過ぎた職員が客員として毎日オフィスに来て
いました。アメリカは蓄積されたノウハウを無駄なく自国のデータの整備に役
立てているわけです。

 ニューヨークの日本人の人口がウィーンのそれよりも多いことは確かですが、
マンハッタンに行けば日本のものは手に入らないものはない、ということでし
た。牛丼の吉野屋、和菓子の源吉兆庵、書籍の紀伊国屋など本当に何でもある
そうです。思い立ったら車か電車で空港に行ってすぐ帰国できるのも便利だと
いうことでした。

 このことのみならず、研究所周囲に居ても何となく日本との距離感を感じま
せん。例えば暗くなってから車で国道や住宅地を走っているときに、周囲の風
景にヨーロッパに居る時ほどの違和感を感じないのです。特にこのことを強く
感じたのは家屋の造りです。研究所の職員は割合簡単に自分の家を建ててしま
うようですが、ウィーン周辺に比べると簡単に建てたり壊したりする家が多い
のでは、と想像します。研究所のカフェテリアの食器が全て使い捨てなのとも、
どこかでつながっていそうです。

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   ■ マンハッタンでの出来事
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 さて、このようにして楽しかった1週間余の滞在もあっという間に過ぎまし
た。帰途、空港に荷物を預けマンハッタンで少し日本の香りに触れようとした
時のことです。

 空港からエアートレインという5ドルほどの電車で最寄りの地下鉄駅まで移
動するつもりが、案内人らしき人に「ここからシャトルに乗るのが良い」と駐
車場に案内されました。彼に「幾らだ」と聞くと「タダだ」と答えるので、案
内された車に乗りました。約20分で地下鉄の駅には着いたは良いがそこで黒人
運転手が197と書いた紙を出します。

 ただのはずなのにおかしいと思いましたが、聞けば197ドルと答えます。
「タダ(free)だと言われた」と言えば、「freeとfee(料金)の聞き違えだ」と
言います。私の耳は確かに大したことありませんがしかし文脈からこの聞き違
いはなさそうです。

 197ドルとは2万円近い大金ですから、ああそうですかと払うわけにはいきま
せん。途中で「金を無理矢理取り上げる男を呼んだから」と車で裏通りに連れ
て行かれしつつ、結局1時間ほど、売り言葉に買い言葉で、延々とやりとりを
続けました。

「乗ったこちらも乗せたお前も悪いから半額でどうだ」と言ってみたりもした
のですが、この「お前が悪い」という言葉に頭に来たらしく、ひどく怒鳴られ
て驚きました。ところが、自分の財布を開けて更に驚いたことには半額どころ
か80ドルしかありません。

 半額すら払えないから「近くの預払機のあるところまで行ってくれ」と頼み
ました。すると、なぜかこの80ドルでこの雲助は手を打つ気になったようです。
当たり前と言えば当たり前の話ですが、心当たりのない車には絶対に乗らない
ことです。

 ともあれマンハッタンで高くついた牛丼を食べ、大西洋を渡ってウィーンに
戻りました。

 ●『OB/OG』第6回→( http://www.supaa.com/kikou/otsuka01.html )

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 ┃イ┃ベ┃ン┃ト ┃ご┃案┃内  
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 ◎信州大学東京同窓会
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拝啓 寒さが厳しくなってきましたが、皆様方におかれまし
 ては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて、恒例の信州大学東京同窓会を開催する事になりました。
 今回は、日本初の代理出産公表をされた根津先生(医学部卒業生)に講演会
 をお願いしました。また女性には、特別会費を用意いたしました。毎年、全
 学部から合わせて100名を超す同窓生が集まっています。今回もより多く
 の同窓生に参加いただければ幸いです。初めての方も、若い方も、お一人で
 も気軽にご参加下さい。
                  信州大学東京同窓会長 
                  根建恭典(文理学部 昭和36年卒) 
        記
 1.日 時 
 平成23年2月5日(土)14:30〜19:15

 2.場 所 
 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
 千代田区九段北4−2−25 電話03-3261-9921
 ※JR中央線・都営新宿線・有楽町線・南北線、
 各市ヶ谷駅より徒歩2分

 3.内 容
 −13:30〜14:30  受付 
                          ※例年混雑しますので、早めにおいで下さい。
 −14:30〜16:00  講演会
          諏訪マタニティークリニック  根津八紘氏(医学部 昭和43年卒)
                     「生殖医療の現場から−減胎手術から代理出産まで−」
 −16:00〜16:40   大学本部からの報告 
             ※学長から母校の将来ビジョンを報告
 −16:45〜17:00   総会
                      ※会計報告・役員改選
 −17:15〜19:15  懇親会
                          ※余興1:信州大学YOSAKOI祭りサークル「和っし
                                  ょい」昨年は、第11回「にっぽんど真ん  
                                  中祭り」に参加210チーム中第2位となり 
                                  ました。
                          ※余興2:ビンゴ大会                      
 4.会 費 
       男性 一万円、女性 六千円
      ※当日のお支払いもできますが、混雑しますのでできるだけ事前に
      お振込みください。
    <振込先>払込番号 00140-7-389748 
         加入者名 信州大学東京同窓会
 5.出欠のご連絡 
       出欠のご予定を、1月9日までに近藤までご連絡お願いします。

   <連絡先>下記問合先記載のメールへ   

   <ご連絡内容>氏名、学部、学科、卒業年度、〒、住所
 
 6.問合先
    ご不明な点など、何なりとご連絡下さい。    
      事務局(理学部担当) 近藤一郎(理学部物理学科 昭和57年卒)
    メール kondoi1007@gmail.com
      電話 090-8000-4333

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
======================================================================
 <再掲>■「同窓会費」は終身会費として1万円。『会計細則』決まる!■
----------------------------------------------------------------------
 1.同窓会費は終身会費として1万円とする。一括払いを原則とするが、本
 人からの申し出があった場合は事務局長が分割払いを認めることができる。

 2.事務局長名で金融機関に同窓会の口座を設ける。事務局長が通帳・印鑑
 を 管理する。会計担当がカードを管理して口座からの出し入れなどを行う。
 
 3.在校生からの同窓会費徴収は、事務局が徴収日を決めて実施する。徴収
 後、在校生の会費支払い者リストは、すみやかに会長ほか、会計担当および
 関連事務局員に伝達する。

 4.金融機関への振込み手数料は会員の負担とする。

 5.会計担当は、年1回開催する総会を利用したり、メールで呼びかけたり
 して、 卒業生からの会費徴収に勤める。

 6.毎年開催の同窓会総会における参加費の徴集など会計管理については、
 その年の幹事が担当し、事務局が補佐する。必要経費は事務局から事前に仮
 払いのかたちで支出できる。幹事は開催後しかるべく早く収支を事務局に報
 告し清算する。 

 7.会計年度を4月から翌年3月とする。           ┳ξ
 会計はすみやかに決算報告を作成                  ●●●
 して会計監査担当から監査を受ける。               ●●
                                                  ●
 8.本細則の改正は総会で行う。
            ┏━┳━┳━┳━┓
 ▼下記いずれかの口座に┃同┃窓┃会┃費┃のお振込みをお願いします!
            ┗━┻━┻━┻━┛
 ------------------------------------------------------------------
  ◆郵便局の場合/通常郵便貯金 
  記号:11150 番号:20343411
  口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
  住所:390-8621 松本市旭3-1-1

  ◆銀行の場合/八十二銀行 信州大学前支店
  店番号:421 普通預金 口座番号:650215  
  口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
  住所:390-8621 松本市旭3-1-1
           
 ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄ ◎編集後記◎/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄
  /\ ☆  ●・・自宅療養されている勝木渥先生から当メルマガ会報につ
 │○│    いて「信大物理同窓生間の情報交換ないし連帯意識を生み出し
 │ │     深める面で極めて有意義な働きをしており……」というお褒め
/| |\   の言葉をいただいた。ありがたい。2001年の準備01号発行から、
 ̄ ̄ ̄ ̄    気がつけば、あしかけ10年の歳月が流れた。少しばお役に立て
 ||||     たと思うが、OBの参加意識はまだまだ。これからもう一頑張り。
       ●・・これまで勝木先生からいただいた卒業生に関する情報に
はたいへん助けられた。小河勝さんもそのひとりだ。次号では勝木先生が1990
年に書かれた「物理退職3先生を送る言葉」を掲載する予定。3先生とは、宮
地先生、鷺坂先生、辻村先生。当時の様子が手に取るように。乞う、ご期待。
●・・小林善哉くんの松高シリーズは今号で最終回。寂しい。もっと続けてほ
しいと思ったが、ネタ切れ? 彼から、寄稿集「われらの青春ここにありき」
の一部コピーが送られてきて、読んでみると実に面白い。ここからスタートし
たシリーズであった。さすが、多士済々の名士を輩出した学校だけあって、エ
ピソードも凄まじい。実際の松高卒業生にインタービューする続編を考慮中。
●・・昨春、成績優秀者表彰に参加させていただいたとき、日本人でない留学
生が表彰されていた。これに着目して、留学生に一筆書いてもらうよう、志水
先生に依頼した。今号に紹介した韓国の二人である。日本語がダメなら英語で
いいよ、と言っていたが、寄せられた原稿を見てびっくり。実に(日本人以上
に?)流暢な日本語で書かれていた。さすが、と感心せざるをえない。(MT)
○・・今年も早や師走になりました。当メルマガ会報に投稿して下さいました
恩師の先生方、同窓生の皆様に深く感謝申し上げます。「継続は力なり」お陰
様をもちましてこのWEBを軸として何とか活動を続ける事が出来ました。
○・・この1年も沢山の出来事がありましたが、先行きの見えない不安がずっ
と、付きまとっております。これに対する国の施策が稚拙・幼稚で、この暗さ
は増幅するばかりです。 
○・・しかし、科学技術の分野ではノーベル賞が今年もわが国の二人の化学研
究者に授与されました事は、自然科学を志す者にとっては明るい灯明なりなり
ました。資源の無い我が国は、「知恵とアイデアと根気」で生きていくしか術
がありませんから。                       (MM)
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■ MAILMAGAZINE BULLETIN 『信大物理同窓会報』0032号(2010年冬号) ■
□ 2010年12月27日  編集・発行/信州大学物理同窓会事務局
《編集委員》松原正樹(文理10)藤惇(2S)太平博久(6S)
□編集長:藤 惇 □ 発行人:根建 恭典

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