■まことに残念なお知らせですが、病気入院中でした理学部物理科学科の寺澤修先生が2005年2月21日夜ご逝去されました。享年64歳。慎んでお悔み申し上げます。
寺澤 修 先生(北海道出身、北海道大学理学部物理学科卒、同大学院理学研究科修士課程終了後、1969年より信州大学理学部物理学科 [素粒子・宇宙物理学講座] に赴任) =研究の概要= 軽粒子をともなわない弱い相互作用の研究;ヒツグス粒子の検出に関する研究;標準模型の精密テストに関する研究 (信大公式ホームページより)
告別式は2月24日、松本市内でしめやかに執り行われました。当信大物理同窓会事務局より生花とお香料をお供えさせていただきました。 合掌
なお。当会のメーリングリストなどに、当同窓会員たちから寺澤先生への哀悼のメッセージがたくさん寄せられていますので、以下にご紹介させていただきます。(到着順)
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武田様、同窓会の皆様。3Sの福森と申します。
寺沢先生は、私どもが入学した前年に信州大学に赴任されたようです。
当時の話ですがルックスが若かったので歓迎会で仁藤先輩(1S)が新入生と
間違い、面白いやりとりがあったと聞いています。
多分私、寺沢先生を夜の松本に連れ出した最初の学生ではなかったかと思います。これは後日知れたことですが、博士号を取らねばならない大事な時期に邪魔をしたのでは。。。と、ずっと後悔しておりました(もうお持ちだと思っていました)。
卒業後、何度か仕事で松本を訪づれる機会があり、性懲りも無く、また飲みましたが恩返しができてないと考えてますため、今回の通知に唖然としております。
ご冥福をお祈り申しあげます。
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非常に残念な知らせです。
寺澤先生には、研究生のときにマントルの「場の量子論」の輪講などでお世話になりました。
授業でも、先生の講義は分かりやすく、量子力学が分かった気になったものです。
卒業以来、ご無沙汰でしたが、物理同窓会でそのうち会えるものと思っておりました。また、碁を打てたらとよいと思っておりましたが、二度とお会いできなくなると思うと寂しい気持ちでいっぱいです。
先生のご冥福をお祈りいたします。
4S・丸山博見
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22Sの來田です。
突然の訃報、いくばくか、動揺しております。まだ、お若いと記憶しておりますので残念でなりません。
寺澤先生といえば、私たちにとっては、「量子力学」の講義でお世話になり、ゼミではJ.J.サクライの「量子力学」(上)を、原書で購読した思い出があります。
顔はむくみがちで、また、ヘビースモーカーでした。タバコをくゆらしながら、本に目を落とす姿が、学生ながら、かっこいいなあと思いました。
私が、計算機で、調和振動子の問題を解いてみせたとき、その波動関数が、規格化されていないのに、あきれられていたのが脳裏にあります。
また、自主的に企画した2泊3日の乗鞍のサマーゼミでは、「QED」の特別講義をしていただき、私には到底理解できませんでしたが、質量ができた瞬間を、興がのったように、説明された語り口や、分厚い青刷りや、A4一頁のラグラジアンが、懐かしく思い出されます。
その頃の私(たち)は、酒をたしなむことをしらず、嗜好品といえば、コーヒーのみがあるばかりで、「禁欲的だなあ」とこぼす寺澤先生を、何もない乗鞍の山の中に2日も軟禁してしまったことを、今更ながら、申し訳なく思います。
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24Sの大塚と申します。
寺澤先生の突然の訃報に接して驚いています。來田さんと同じく、我々の
学年も先生には3年生の量子力学の講義で、そして4年生ではサクライの相対論的量子力学の輪講でお世話になりました (僕は地質から移って一年留年した関係で実際には90Sの皆さんと同じ講義を受けていました)。
演習以外にほとんど出席しない不真面目な学生でしたが、先生の量子力学
は、一年を通じて出席していました。夏休みに提出したレポートには鋭く削った赤鉛筆で丹念にコメントをつけて返して下さったのが印象的でした。手ぬぐいを首からぶらさげて煙草を吸いながら机に向かっておられる姿がかっこいいと思ったあたり、來田さんと同じ体験を共有しているようです。
学部を出た後は、先生が出られた北大の物理の院に進学しました。分野を
素粒子でなく核理論にしたために色々と不安もありましたが、先生は僕を「ちゃんと勉強すれば大丈夫」と、暖かく励まして下さいました。
先生は学位の関係で度々札幌にいらっしゃっり、北大の素研では先生の
セミナーを拝聴する機会も得ました。トップクォークとZボゾンのダイアグラムを示されながら偏極の話をされていたように記憶してますが、難しくて要点すら理解していませんでした。セミナーなどの後はよく札幌駅構内のビアホールに連れて行って下さり、稚内行の22時の急行で岩見沢に帰られるまで痛飲しました。いつもは髪の毛を後ろにだらんと垂らしておられた先生でしたが、学位授与式の前には岩見沢の床屋さんで綺麗に刈ってらっしゃったのも印象的でした。
院生初期の頃はこれに加えて夏の学校で長野に行った折に先生にお目に
かかる機会もありました。大学祭の物理の飲み屋さん(メゾン)で先生はウェーバーの「魔弾の射手」に出てくる「狩人の歌」をサクライにも負けない(!?)美声で披露して下さりました。学外からいらしたと思しき若い女の子たちがこの先生の歌に随分と喜んでおられました。
その後、研究会で美谷島先生にお目にかかった際に寺澤先生の近況を伺う
機会は度々ありましたが、松本に行く機会はこのところうんと減ってしまい、寺澤先生に直接お目にかかれる機会もしばらくありませんでした。
月曜に東京に出た折に乗り換えで新宿を通りましたら松本行の特急が目に
入りました。松本と言えばそろそろ寺澤先生ご退官でなかったかな、と退官のお祝いの席ででも先生や一緒にゼミで勉強した友達などにも再会できることなど考えていたのですが、その翌日に訃報を聞くことになってしまい、今はただただ驚いてます。
先生のご冥福をお祈りします。 大塚直彦
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3Sの福井です。
初めて量子力学の洗礼を受ける頃に赴任していらした先生は、未だお若く明眸皓歯の青年研究者とお呼びするに相応しい容貌でした。
我々との年齢差もそれほど無く、よく遅くまで居酒屋の二階で、あたかも同年の仲間であるかのように議論したものです。
でも、我々悪童の誰も勘定を払った記憶が無いから、すべて先生が面倒を見てくれていたはずです。
近年は、お会いする機会も無くなったままでしたが、先生は安曇野に吹き渡る春一番に乗って逝ってしまわれた。
願わくば人格そのままに爽やかに旅立たれたであろうことを。
合掌
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寺澤先生をしのんで
寺澤先生。卒業後お会いしないでいたのが本当に本当に残念です。
素粒子研ではお世話になりました。
私は不勉強な生徒でしたので、特に質問をしたりしてご指導を受けられたわけではありませんが、大学の先生は、こういう存在感があるものなのだなあという印象が強かったです。淡々と授業をすすめるご様子は、退屈するようではなくむしろ数式の中にこめられている面白さを楽しんでいるといったかんじでした。ご闘病中とはまったく知りませんでした。天国でも物理をなさっているのでしょうか。安らかにお眠りください。
佐藤洋子(旧姓佐々木)年次:22S
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