[ 信大物理同窓会報0029号(2010年春号) ]
2010年3月27日配信



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          ┃信┃┃州┃┃大┃┃学┃┃物┃┃理┃┃同┃┃窓┃┃会┃┃報┃    
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│田田田田田|          │★ SUPAA MAILMAGAZINE BULLETIN 2010年春号 │ 
│田田田田田|            ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│田田田田田|──┐■━━■編集・発行/信大物理同窓会事務局■━━■
│田田田田田|田田|             (http://www.supaa.com/) 
│田田田田田|田田|〒390-8621松本市旭3-1-1 信州大学理学部物理教室内
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 ■「旧文理学部物理学科」+「理学部物理科学科」OB&学生と教員の会■
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  ○-- 3月21日に卒業式があり、その成績優秀者の表彰  --○    ∩ 
  ○-- に当同窓会から初めて副賞を贈呈。7〜8割が  --○  ⊂○⊃
  ○-- 大学院に進む時代で、学部の役割はかつての旧   --○    ∪
  ○-- 制高等学校を彷彿とさせます。我々も松高のDNA --○   ∞l∞
  ○-- を幾分か受け継いでいますが、今号の小林善哉  --○   ∞l∞
  ○-- くん(2S)の松高廃校時に関する一文には注目。  --○

      【 I ・ N ・ D ・ E ・ X 】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
◇ 第13回信州大学物理会総会について・・・第13回信州大学物理会総会 幹事
◇ 第13回信州大学物理会総会:記念講演の演題が決まりました・・松本 節子
◇ 連載第7回【信州大学への追想】“あの日あの頃”
        「生物学科増設と大学院修士課程の設置」 ・・・・・・・宮地 良彦
◇ 2010年度 信州大学理学部物理科学科入試状況・・・・・・志水 久
◇ 松高から信大へ――学制改革の悲哀・・・・・・・・・・・・・小林 善哉
◇ 太田清文(文理学部16回卒)さんの思い出 ・・・・・・・・・・美谷島 實
◇ 全学教育機構 現代職業概論の講義を担当して ・・・・・・・・太平 博久
◇ 【OB/OGの現場から】第11回 
   「仮説実験授業に魅せられた37年間」・・・・・・・・・・渡辺 規夫
◇ ▼△ウィーン便り(4)△▼ ウィーンでの冬の過ごし方・・・ 大塚 直彦
◇ 信州大学東京同窓会(2010年)開催報告・・・・・・・・・・・近藤 一郎
◇ <再録>「同窓会費」は終身会費として1万円『会計細則』決まる!
◇ 編集後記

……………………………………………………………………………………………
   ┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓
  ┃第┃13┃回┃信┃州┃大┃学┃物┃理┃会┃総┃会┃に┃つ┃い┃て┃
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 信州大学物理会総会は原則として松本と東京で交互に開催(間に名古屋開催
を行った年もあります)してきており、2010年は東京での開催になります。
「物理会総会」では、年次総会、講演会と懇親会を行います。講演会では、明
治大学理工学部物理学科教授の松本節子氏(文理13回)にお話頂きます。

                             2009年11月18日

(1)開催日: 2010年5月29日(土)14:00 〜17:00  
       ※13:45から受付開始 総会:14:00〜14:30、
       講演会:14:30〜15:30、親睦会15:30〜17:00
(2)会場: 大手町サンケイプラザ(東京・大手町)         
            ( http://www.s-plaza.com/map/index.html )
            〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2 Tel.03-3273-2257〜9
             ※JR東京駅 丸の内北口より徒歩7分
(3)講演会:松本節子氏(文理13回:明治大学理工学部教授)
(4)会貴:10,000円

  = 第13回信州大学物理会総会 幹事 = 

  三上浩佳(文理10)、杉山範雄(理学12S)、近藤一郎(理学12S) 、
  鳥塚潔(理学13S)、外山元夫(理学13S)
__________________________________
  ◆記念講演の演題が決まりました
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「見えない光(真空紫外光)で透明物質の中を見る」

◇講師:松本節子 氏(文理13回卒:明治大学理工学部教授)

◆講演について:

 先輩の方がたにお話をするような身分ではないのですが、恩師の宮地先生に
捧げるつもりで、なぜ現在の私があるか説明し、そして大学で何を研究してき
たかお話したいと思います。 

 振り返ると、大学を出てから半世紀近い人生を明治大学での研究生活に明け
暮れていたことに、改めて驚かされました。1965年4月から明治大学理工
学部(当時は工学部)に就職いたしました。時代はまさに高度経済成長に向か
って進んでおりました。当然私立大学の学生定員も毎年増加し、それに対応す
るため、先生方は頭を悩まされていたようです。

 何しろ1000人を超える1年生の物理実験を数人の教員でこなそうという
わけですから。そこで目をつけられたのが女性です。入れ替わりの早い(だろ
う)女性を実験助手として採用し、なんとか切り抜けようというものでした。
そんな中で、何人かの女性が採用され、やめていったのですが、しぶとく残っ
たのが私でした。そして現在の私がいることになります。その間のことは当日
お話することにいたします。 

 さて、講演内容ですが、演題のとおりで、透明物質の中を見るのには、目に
見えない光でないと見ることができない、という意味です。固体の中の電子の
エネルギー状態を知る手段としてはいくつかありますが、当研究室で行ってい
るのは、「光の吸収スペクトルによって得られる情報から、固体中の電子の振
舞を調べる」ものです。

 研究手法としては古いのですが、最近では分子軌道計算などの計算ソフトな
どがあり、スペクトルの解析に役立っております。用いる光としては、紫外線
(UV)および真空紫外線(VUV、波長200nm〜0.2nm)と呼ばれる光です。
扱っている物質は水晶、石英ガラス、強誘電体として有名なKDP(KH2P
O4)、液晶配向膜のポリイミドなど種々な物質です。なにしろ透明でなけれ
ばいけませんから。また、これら透明物質中に不純物として混入している物質
も扱っております。その典型的なものが宝石です。講演では「宝石の色」とい
うことで、お話させていただきます。 

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   【信州大学への追想】┃“┃あ┃の┃日┃あ┃の┃頃┃”┃ 連載第7回 
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                   ■ 生物学科増設と大学院修士課程の設置 ■
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            宮地 良彦(信州大学名誉教授・物理同窓会名誉顧問)
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                  *
         理学部発展の過程で落とすことのできないのは、生物学科の
   ●●    共通講座からの昇格と大学院修士課程の設置であろう。
  ●※●   
   ●\§   前にも述べたように、文理学部の改組に当たって、生物は共
    ∞\  通講座として取り残されていたが、これは学科構成からみてバ
       ランスを欠くものであり、自前の学生教育のできる生物学科の
必要性は、全員の認めるところであった。また理学部という学部の性格上、さ
らに進んで大学院修士課程あるいは博士課程の設置を目指そうとする考えは、
程度の差こそあれすべての教官に共通するものがあった。

 信州大学理学部では、生物学科の新設と修士コースの設置を概算要求として
毎年文部省に提出し続けていたが、修士課程が設置されても教官の増員は望め
ないことがはっきりしていたことから、大学院のための負担増を考えると、学
部教育の充実が優先という根強い意見もあって、それほど積極的であったとは
言えないのが実情であった。

 このような空気が大きく変わり始めたのは、私が理学部長に就任直後の19
73(昭和48)年ごろである。この年5月に埼玉大学で開催された全国理学
部長会議で文部省は、高等教育拡充と学生増を絡めて大学院を考えていると表
明した。さらに同年11月東京での理学部長会議の席で、大崎大学課長は、年
度内に予定されている大学設置基準分科会の答申を50年度から適用し、現在
大学院を持っていない大学への修士コースの設置を前向きに検討したいと発言
した。これによって新設理学部は修士課程設置へと大きく加速されることにな
る。

 こうした空気の中でわが信州大学理学部については、たいへん明るい状況が
生まれてきつつあった。というのは1974(昭和49)年2月に次年度概算
要求の内容説明のために私が文部省を訪れた際、大崎大学課長から、「改組理
学部についての拡充は従来取り上げない方針できたが、今年は千葉の地学科を
取り上げたし、方針を変更している。信州の生物学科の構想は面白いと思うの
で、学科新設として出してはどうか。また大学院修士課程はどうですか?」と
声をかけられた。

 文理学部の改組の際、生物が共通講座とは言いながら、2講座分の教官と臨
湖実験所の助手を加えて計7名の教官を持っていたことが、ここで大きく効い
てきたのである。

 こうした異例ともいうべき本省側からの助言に力を得て、理学部では生物学
科の新設と理学部修士課程の創設を含む昭和50年度概算要求を、例年にない
強い姿勢で提出した。この時生物からは、学科新設と同時に他の4学科と足並
みをそろえた修士課程設置の強い要望があったが、その後の折衝により、大学
院は学科の存在が基礎であり、基礎となる学科のないところに大学院の設置は
できないことが明らかになり、生物側も納得の上で概算要求は提出された。

 ここまで準備を進めてきた大学院計画であったが、実は私の健康状態はこの
ころ最悪で、長年患っていた胃潰瘍は悪化の一途をたどっていた。そのため1
974(昭和49)年5月に信州大学主催で開催する予定の全国理学部長会議
を区切りとして、任期2カ月を残し理学部長を辞任することになった。

 しかしそれまでの仕事は6月1日から新任の山下昇新部長に引き継がれ、そ
の後は予定通り着々と進行した。その結果、翌1975(昭和50)年には3
講座(発生学、生理学、生態学)の生物学科が、2年後の1976(昭和51)
年には理学研究科修士課程(数、物、化、地の4専攻)が設置され、引き続き
1977(昭和52)年には生物学科の高地生物学講座増設、1979(昭和
54)年4月には理学研究科に生物学専攻の増設を見て、ここに念願の理学部
5学科の完備と全学科への大学院修士課程設置という長年の夢が実現されるこ
とになったのであった。

 こうして発足した大学院理学研究科修士課程は、当然のことながら、学部学
生の勉学意欲にも大きな刺激を与えた。さらに当時は理学系大学院といえば旧
制帝大系10大学の博士課程と、旧制医大系7大学の修士課程の計17研究科
しかなかったこともあって、大学院のない理学部からの応募者も多く、当初懸
念された教官の負担増を乗り越えて学部の研究教育活動の活性化に大きな力と
なったのであった。

                   ● 総合大学院計画とその挫折 ●

 大学院修士課程計画の話の延長として、時間的には大分後のことになるが、
大学院博士課程計画について、ここで言及しておこう。

 理学部に大学院修士課程が設置されてから約10年後の1986(昭和61)
年ごろになって、信州大学に大学院博士課程を考える状況が生まれてきた。と
いうのは、当時文部省は、それまで修士課程しかもっていなかった新潟、金沢、
熊本などいわゆる旧制六大学に、文系、社会系、理工系を総合した博士課程大
学院総合科学研究科(通称総合大学院)を設置することを計画した。

 これを知った信州大学北条舒正学長は、この機会に信州大学にも総合大学院
を設置したいと考えて、大学の将来計画委員会に大学院専門部会を設けて、そ
れまで博士課程を持っていなかった信州大学の全ての学部(医学部を除く)を
含めた総合大学院計画の検討を始めた。

 たまたまこの大学院専門部会部会長を命ぜられた私は、金沢、新潟、岡山な
どから情報を集めながら、各学部の計画を取りまとめて計画を具体化すること
に追い回された。しかしながらこの計画は、総合大学院は旧制六大学限りとい
う文部省の堅い意向のため、北条学長の異常なまでの執念にも関わらず、実現
困難であることが明らかになり、後で述べる農学部の農学系連合大学院問題も
絡んで、1988(昭和63)年度概算要求では、「総合科学研究科は理学部
を提出部局とするが、繊維学部提出の工学系研究科を優先する」という形に変
質した。

 このような曲折を経て、1991(平成3)年4月には繊維学部と工学部を
中心とする大学院工学系研究科(博士前期課程および博士後期課程)が設置さ
れ、同時に農学部は岐阜大学大学院連合博士後期課程に参加することが決定し
た。この時点では取り残された理学部も、私の信大学長退任後の1998(平
成10)年4月になって工学系大学院博士課程への参加が実現し、大学院博士
課程問題は自然科学系に関する限り一応の決着を見たのであった。


                   ● 総合大学院をめぐるエピソード ●

 この総合大学院計画をめぐっては、いくつかのエピソードがある。

 一つは経済学部の総合大学院計画からの離脱である。人文、教育、経済の3
学部は、博士課程大学院が全国的に少ないこともあって総合大学院にはそれほ
ど積極的な姿勢を示してはいなかった。中でも経済学部は、実学的な経済学と
いう学部創設時の理念もあって、総合大学院にはほとんど関心を示さず、つい
に昭和62年に入って、この計画から撤退することを大学院専門部会で表明し
た。

 当時経済学部の神林専門部会委員は、「経済学部は当面大学院には関係した
くありませんし、将来も大学院を計画することはないでしょう」と言明した。
このため総合大大学院計画から社会経済分野は削除されることになった。

 ところがそれからまもない1989(平成元)年4月になると、経済学部に
は大学院経済・社会政策科学研究科(修士課程)が設置された。この時の経済
学部長はなんと神林章夫氏であった。しかもこの神林氏は、大学院担当教官と
して申請書類に名を連ねていたにもかかわらず、大学院発足の年には退職して、
民間企業へ転職してしまったのであった。

 もうひとつのエピソードは農学部の博士課程である。文部省は以前から全国
の農学系大学院(博士課程)を、地域別に3〜4大学をまとめる連合大学院計
画を推進しており、東海地方では、岐阜大学を主幹として静岡、信州、三重を
含む連合大学院計画が関係学部間で議論されていた。これに対して当時の北条
学長は、農学部は岐阜大学を主幹とする連合大学院への参加(博士号は岐阜大
学農学博士)を取りやめて、信州大学の総合大学院計画に乗り換えるよう農学
部を強く説得していた。

 ところが連合大学院計画が予定通り進まないことに業を煮やした文部省は、
1989(平成元)年4月の農学部長交代で文部省を訪れた細野農学部長に、
「信州は学長が総合大学院計画に熱心で、農学系連合大学院を拒否しているが、
この状況が続くならば今後農学部の大学院博士課程の面倒
は見ません」と宣告した。驚いた農学部は、学部内での討       vvv
議の結果、この年10月の評議会に、「農学部は総合大学   vvv (  )
院計画から撤退して岐阜大学大学院連合農学研究科(博士   ( ) ~|~
課程)に参加する」ことを申し出て承認された。かくして    ~|~  | /
総合大学院計画は、はかない夢として消え去ったのである。   |/\|/  

(文中の肩書は当時のもので、敬称は省略いたします。)   (以下次号)

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 □■□□■□ 2010年度 信州大学理学部物理科学科入試状況 □■□
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   学科の取り組み
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■学部(推薦入試、前期日程、後期日程、帰国子女・私費外国人留学生等の特
別入試、3年次編入学)面接とセンター試験の結果で合否を判定する推薦入試を
昨年度から定員5人で導入した。

前期日程と後期日程は、それぞれ定員20人、10人で募集し、後期日程はセンタ
ー試験の結果のみで判定している。

3年次編入学は、短大および高専の卒業生の進学先を提供するために実施して
いる。帰国子女・私費外国人留学生等は、毎年志願者がいれば実施する。

■大学院(修士課程)
    I期:7月上旬に面接のみで実施
   II期:8月下旬に筆記試験により実施

   今年度の状況
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■学部:今年で2回目を迎えた推薦入試は、定員5人に対して9人の受験者があ
り、県内よりも県外からの受験者が多かった。平成14年度以降、18歳人口が約
4万人/年ずつ減る中で、前期・後期日程の志願倍率は平均で前期3倍, 後期6倍
を維持している。理学部では夏にオープンキャンパス(高校生向け)と信州自然
誌科学館(2010年で10回目)を開催している。また、理学部同窓会の援助により
作成した冊子「信州で学ぶ」を全国の多くの高等学校に配布している。これら
の取り組みの志願状況や新入生への影響は僅かではあろうが、今後も引き続き
実施していく予定である。
   
今年度については不況の影響により志願者数が増えているかもしれないが、地
元指向の傾向は高くなく、全国から集まってきている。

■大学院:卒業生の大半が大学院に進学する中、旧帝大を含む他大学の大学院
への進学者が多い。逆に他大学からの進学者はほとんどいないため、内部から
の進学者を確保するために面接のみの入試をI期入試として7月上旬に実施して
いる。この入試は筆記が免除されているが、指導教員の推薦書が必要なため、
他大学との併願を希望する学生のために、従来と同様のII期入試も実施してい
る。                  
                                              (志水久/91SA・記)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ■ 理 学 部 出 願 状 況(2010年確定志願者数)

学      科     前期(A)(B)(C)(D)    後期(A)(B)(C)(D)
----------------------------------------------------------------------
数理・自然情報科学科   25 87 3.5(2.8)     27 227  8.4(9.4)  
物理科学科               20 67 3.4(1.9)        10  74  7.4(5.4)  
化学科                   15 55 3.7(3.3)        15  47  3.1(8.5)  
地質科学科               13 25 1.9(1.7)        13  82  6.3(10.5)  
生物科学科               15 55 3.7(1.8)        15 101  6.7(5.2)  
物質循環学科             10 36 3.6(2.5)        10 101 10.1(7.5)  
----------------------------------------------------------------------
(A):募集人員 (B):志願者数 (C):志願倍率(倍) (D):昨年志願倍率(倍)
△物理は前期:1.9→3.4倍、後期:5.4→7.4倍と、大幅な上昇をみせた。

======================================================================
   ┃T┃O┃P┃C┃S ┃卒┃業┃生┃表┃彰┃者┃に┃副┃賞 
   ┗━┗━┗━┗━┗━ ┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━        
    ◎3月21日(日) に信大松本地区の合同卒業式が、松本市の県松本文化
    会館で開かれました。人文、経済、理、医の4学部合わせて803人
    が卒業。大学院6研究科で155人が修了しました。 

     午後からは各科に分かれて卒業証書の授与式が行われ、物理は3階
    8番教室に集合。ところが定時には全員揃わず、赤い顔をして駆け込
    む者もいるなどして雰囲気はきわめて和やか(信大らしい?)。学科
    長の竹下先生から、出席者全員に証書が授与され、その後、成績優勝
    者5名にも表彰状が授与。さらに当会から、今回初めてとなる副賞
     (あずみ野ガラス工房製の一輪ざし)と喜びのカードが贈呈されました。

     ▼以下写真などは、次のWEBサイトでご覧ください。
   ◎WEB版→ ( http://www.supaa.com/pages/osirase.html )

======================================================================   
  ■ 松高から信大へ――学制改革の悲哀 ■
----------------------------------------------------------------------
      小林 善哉(理学2S/電子研究室・広島市立美鈴が丘高等学校) 
----------------------------------------------------------------------
       先日、私の拙文「みすず刈る信濃の空に」に関連し、勝木先生
 (・>    より[ml:00044]にて次の問題提起がありました。
 /彡))    
/ /      「なお、関連して次のような疑問が出てきました。
/"?k_       たとえば、松本一中を昭和23年に(5年)卒業ないし4修で旧制松本
      高校に進学し、昭和24年に信州大学松本高校の(文科または理科
の)第1学年を修了した生徒は、信州大学文理学部の人文学科または自然科学
科に(入学試験を介することなく)移行し、他方、昭和24年に新制高校を卒業
した、新制高校第1回卒業生は入学試験を受けてたとえば信州大学文理学部に
進学したのであろうが、定員のかなりの部分が松高からの移行者によって占め
られていたとすると、何か問題が生じ得たのではないか、という気がするが、
松高生の信大文理への移行にも、試験が課せられたのだろうか? 事実を知り
たい。」
            ※      ※            ※ 

 学制改革により旧制高校が新制大学へと移行されるとき、実際、それがどの
ように行われたのか大変興味のある点です。勝木先生ご指摘の疑問は、私も同
様に疑問に思いますので、この点について私なりに調べてみました。今回、そ
の結果を同窓会の皆様にお伝えいたします。

 何か述べるとしても、私は戦後の新しい学制で教育を受けた者ですので、学
制改革当時の出来事を何一つ体験したことはなく、直接何かを知っている訳で
もありません。しかし、私の手元には、松本高校に関するひとつの資料があり
ます。それは、昭和53年9月10日発行の「われらの青春ここにありき」という
大判の分厚い文集です。

   (注)これは、松本高校同窓会が松高創立60周年を記念して、卒業生と
    元教官の手記を集めて作成したものです。「歴史の証人の証言録」と
    もいうべき、この資料を手がかりにして調べていくうちに、その移行
    の手順だけでなく、松高の終焉に立ち会った諸先輩また諸先生の心情
    についても知ることができましたので、この点についても述べてみた
    いと思います。

   (注)同期生の岡田菊夫君が、古本屋で発見し購入したものを“拝領”
    いたしました。
  ________________________________
  #  戦後の松本高校について
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 この文集の巻末にある年表と卒業生の手記を読んでいくと、昭和20年8月の
敗戦後、早くも10月には復員軍人、転入学者選抜入試が行われたことが分かり
ます。しかし、その年の冬は極度の食糧不足から学校は休校となっています。

 そして、翌21年2月に、旧制高校の修業年限が2年から3年に復され、これに
より21年の卒業生はありませんでした。(大学入学は復員軍人、浪人、女子の
み 年表より引用)21年5月、授業が再開され、9月1日、戦後初の新入生(28回
生)を迎え、さらに、陸軍士官学校、海軍兵学校などの陸海軍関係の出身者、
外地から引き揚げてきた学生、さらには方々の戦地を転戦してきた者の転入学
もあったようです。その結果、生徒数は900名を越えたそうです。それまで、
最も少なかったときは320名程度だったようですので、大変な増え方です。そ
の後、昭和24年には新制大学が発足し、同25年には旧制高校は幕を閉じること
となります。

 以下、「文集」を読みながら、その時期の松高生の入学と卒業について入学
年代順に表にまとめてみました。

┌────┬─────────────┬──────────────┐
│年 度 │  卒業              │  入学          │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和20年│25回生卒業(在学2年)    │27回生入学(7月)         │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和21年│修業年限延長のため        │28回生入学                  │
│        │卒業者なし                │                        │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和22年│26回生卒業(1年延長)   │29回生入学              │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和23年│27回生卒業(1年延長)   │30回生入学(最後の入学生)  │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和24年│28回生卒業               │入学生なし                  │
│        │30回生全員退校(1年終了)│                            │
├────┼─────────────┼──────────────┤
│昭和25年│29回生卒業(最後の卒業生)│                        │
│        │松本高校閉鎖       │                            │
└────┴─────────────┴──────────────┘ 

 この表から分かるように、昭和23年度までは、1年生から3年生まで全学年在
学しています。翌昭和24年、わずか1年間在学しただけで、30回入学生は「修
了」となり、旧制高等学校の学籍を失うことになりました。そして改めて、新
制大学を受験することになりました。その結果、松本高校は3年生のみとなり
ます。同年5月30日、国立新制大学69校が発足(合計179校)。6月1日、竹内良
三郎五高教授が松高最後の校長として着任。6月には信州大学の最初の入試が
行われています。

【結論】

 前置きがずいぶん長くなりましたが、以上の経緯から、結論はこうです。

1.旧制高校が新制大学に移行するときに、旧制高校在学中であった者にも
 (いったん退校した上、新制高校卒業者と同じ資格で)入試が課せられた。

2.したがって、松高出身者が文理学部の定員の大部分を占めて、他の受験生
 を圧迫するというような問題は生じなかった、と考えられます。
  ________________________________
  #  松高生の反応
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 30回生は、松本高等学校にせっかく入学したのに、1年後もう一度入学試験
を受けなければならないことになりました。当時の松高生はどのように反応し
たでしょうか。この点について、「文集」から彼らの気持ちを読み取ることが
できます。松高最後の卒業生である中野繰一氏(29回理3)は次のように書い
ています。

「・・・(略)・・・遂に旧制高校の消滅する時がやって来ました。一年生は
新制大学へまたまた入試を受けなければならなくなりました。われわれ二年生
はもう一年間、三年生だけの高等学校をやってから大学入試(注)ということ
で少し寿命が延びました。巷には白線浪人が満ち溢れ、とても大学へなんぞは
入れそうもネーゾとよるとさわると大騒ぎでした。」 

   (注)昭和25年の最後の旧制大学入試と思われる。

 もうひとつ、元教官の向井正幸教授の手記「松高の終焉」の一部も紹介いた
します。

「・・・・・・惜しいことにこの山口さん(注)の属する学年は、二年生にな
ると同時に新制大学に新制高等学校卒業生と同じ資格をもって随意入学試験を
受けることを余儀なくさせられたため、旧制松本高等学校卒業生名簿の中にひ
とりの女性の名も見ることができないことになってしまった。(以下略)」

   (注)松高に在籍したただ一人の女子生徒山口暁子さん(30回理3)
  ________________________________
  #  松高から信大文理へ
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 では、どれくらいの人数が松高から信大に行ったのかという疑問が出てきま
すが、私の手元にある資料からはその実数を把握できません。しかし、ひとつ
の情報として、金子鉄麿氏(29回文乙)は、「最後の松高演劇部」という手記
の中で次のように書いています。

「昭和24年春、新学制によって、信州大学文理学部が発足している。私たちの
一年下の第30回生は、それぞれ新制大学へ散っていったが、松本を去らず信大
文理学部に留まった者も多い。」

 また、松高から信大に進んだ映画監督熊井啓氏(30回文乙)は、「・・・
(略)・・・学制改革で松高が信大文理学部になった時、松高演劇部の諸先輩
に『部の伝統を信大に残せ』とハッパをかけられ、神田寛(30回文乙)たち松
高の残党と共に信大演劇部を組織した。」と書いています。このことから、松
高→信大というコースをたどった松高生も少なからずいたと思われます。
  ________________________________
  #  松高生の見た信州大学
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 では、松高がなくなり信大が誕生したとき、松高生はどう感じたのでしょう
か。松高最後の生徒であった中野繰一氏(29回理3)の手記「門札の怪」の
一部を引用します。

「三年生になり、漸く下宿生活にも慣れた頃、今まで何もなかった校門のコン
クリートの柱に片や信州大学文理学部、片や信州大学松本高等学校と記された
広幅の門札が忽然として現れました。蛭さんの書かれた通り俄然「なんでー」
という声が持ち上がり、まもなく誰かが裏返して、下手糞な字で『松本高等
学校』とのみ記されてありました。翌日はまた信州大学のついた方が表になっ
ているという訳で、しばらくの間、門札は毎日のように表になったり裏になっ
たりして、そのうち学校側も気がついたのか、信州大学の文字を除いた細長
い門札に変えたので、騒ぎはひとまず落ち着きました。実は、この門札をパク
ろうと出かけた訳ですが、ツーシュペートで既に失敬された後でした。(以下
略)」

 どんなに抵抗しても、時代の流れを押しとどめることのできない悲しさ。去
りゆくものに対する郷愁。このような気持ちを、松高生は彼ら特有の方法で表
現したのではないでしょうか。後に、だれが見てもすぐ分かる大きな門札を堂
々と列車に乗せ、東京まで持ち帰った話が中野氏の手記の後段に書かれていま
す。

 もうひとつ、前述の元教官の向井正幸教授がお書きになった「松高の終焉」
の一部を引用します。

「旧制松本高等学校を母体とする新制信州大学文理学部は昭和二十三年六月三
十日をもって発足した。(筆者注 24年の間違いと思われる)しかしすべてが
信州大学に切り換えられたのではない。旧制高等学校三年生と教官の一部が残
った。土地、建物、事務職員一切が新制大学に移ったので高等学校は先生と生
徒だけということになった。学習する机も図書館から借りる本も一切大学のも
ので高等学校では形のあるものは何一つないことになってしまった。それで名
称も信州大学という肩書きをつけて信州大学松本高等学校と呼ぶことに変わっ
た。三年生の生徒たちは、この肩書きの四字を喜ばなかった。やむを得ない場
合以外はこの四字の肩書きを用いないでくれと申し入れてきた。そして玄関に
信州大学松本高等学校と書いて掲げてあった大きな表札の上の四字はいつの間
にか消えていた。(以下略)」

 信州大学という聞きなれない大学名にとまどいと違和感を持ち、あくまでも
旧制高校を愛し、松本高校という名前に深い愛着を持っていた松高生の気持ち
がこれらの文章を通してよく伝わってきます。信州大学で学んだ者からすると、
「そんなに信大を嫌がらなくてもいいのに」と、複雑な気がしますが、一途に
旧制高校を愛し、旧制高校が青春そのものであった松高生からすれば到底受け
入れることのできない改革であったと思われます。

 前述の中野繰一氏は、「骨のある奴がいなかったのか、はたまた新学制がよ
いと信じた奴が勝ったのか、…(中略)…新学制になってから既に二十九年、
現在の教育は少しは昔よりましなのでしょうか。あまりそうとも思えません。
旧制高校を潰した奴がわかったらフトン蒸しにしてやりたい気持ちです。」と
書いています。今日の教育の荒廃ぶりを見るにつけ、教育に携わる者の一人と
して、「少しは昔よりましなのか」という氏の問いは胸に迫るものを感じます。

             ※      ※            ※ 

【訂正】『信大物理同窓会報第0028号』に掲載された、「みすず刈る信濃の空
に」の文中に引用した歌詞の一部を次のように訂正いたします。

 空ゆ果たて →(正)空ゆ果て

 松高同窓会が作成した寮歌集のレコードのジャケットには、歌詞が「空ゆ果
たて」となっており、レコードを聴いてもそのように聞こえます。しかし、私
の同僚の国語教師は、「空ゆ果て」でないと文法的におかしいと言います。そ
こで、思誠寮が発行した「思誠寮寮歌集」(昭和53年3月1日発行)で確認した
ところ、「空ゆ果て」となっていましたので、このように訂正したほうがよい
のではと思います。皆さんのご意見をお聞かせください。

======================================================================
    ■ 太田清文(文理学部16回卒)さんの思い出 ■
---------------------------------------------------------------------- 
                美谷島 實(文理15・信州大学特任教授)  
----------------------------------------------------------------------
         平成21年(2009)年末、「太田君が亡くなった」との電話を
   (~)    袖山隼雄(文理16回さんから受けた時の第一声は「事故だ
  (こ※こ)   ったの?」でした。昨年3月の小生の退職記念パーティーに参、
   (_)(_)      加してくれたとき、元気の様子で、「話の仕方は学生のとき
        と同じだ!(進歩が無いと辛口のコメント)」しかし、「大
学はこういう会があって良いなあ。」「会社でも同じでは?」「無いんだ。」
「今も例の会社(富士通とは別会社)へ行っているの?」「辞めて、先程のスラ
イドに出てきた理科教育(SPP事業)のような教育活動を、横浜で仲間と一緒
にボランティア活動としてやっている。」「それは良いね。その時、生徒の注
意力を引き付けたり、持続させるには工夫がいるでしょう。・・・処で、今夜
帰るの?」「長男が薦めてくれたホテルに泊まっている。長男はこういうこと
に詳しんだ。明日、旧文理学部の跡地(縣の森公園)と昔の下宿に行った後、
バスで帰京する」と話をしました。

 翌朝そのホテルへ行ったのですが、街中へ出発したようで会えませんでした。
今になると、太田さんは「さよなら」を言いに、また「自らの青春時代の見納
めに来たのか?」との思いにかられます。

 1月4日に袖山さんと二人で通夜に参列しました。参列者が余りに大勢(富士
通関係者。我々は都会の通夜は初経験)で、二人で吃驚して、横浜の冬の星座
を見ながら帰路に着きました。5日の告別式には、松本から三沢進(文理16回)
さんが参列しました。その数週間後に、伊藤寛(文理16回)さんから同窓会Web
への追悼文の依頼の電話があり、約45年以上前のことを思い出しながら記して
みます。同じ時代を生きた「同級生の思い出の手記」程にご理解して下さい。
また、記憶違い・誤解等はお許しを願います。

            *     *     *

 太田さんは、木曾郡大桑村の出身で、木材を扱っておられた一家の末っ子で
した。下宿は旧文理学部近くの薄川沿いのお宅で、英文科専攻のHさんと一緒
でした。当時太田さんの木曾のお宅の事業は、会社組織で役員か何かに(登記
?)していたような話でしたが、農家出身の小生には、残念ながらその仕組み
は理解出来ませんでした。当時としては珍しく自動車の運転免許証を持ってい
たように思います。

 特に印象に残っている話は、「兄弟姉妹が多いと、相性の良い(仲の良い)
組み合わせとそうでない組み合わせが、自然に出来るんだ」でした。今になれ
ば、太田さんは幼少のころから、「人間観察力と会社経営のノウハウ」を、意
識せずに身に着ける訓練をしていて、後世になってそれが生きたのではと思わ
れます。

 旧文理学部では、勉学以外に登山、スキー等の野外活動にも熱心でした。西
穂高岳の登山(悪天候で途中まで)と栂池かの日帰りスキーに、一度連れて行
ってくれました。学生による自主ゼミでLandau−Lifshitzの『量子力学(英文
の海賊本?)』の輪読、更には卒業研究としての素粒子論の外書講読(Fermi
の教科書と原子核の洋書)のゼミや物性論のゼミに出席して、量子力学への理
解力を養って、68年に名古屋大学工学部の大学院へ進学しました。

 名古屋大での2年間については、詳しくありませんが、その2年後にまた東京
で会えるようになりました。富士通に就職が決まったときに、親族か知人たち
に「富士通=日本通運と同業の会社」としか理解してもらえないとぼやいてい
ました。これは、通信・情報産業が揺籃期であった70年当時の日本人の平均的
な捉え方だったかも知れません。

 しかし、その後の半導体産業の進展は著しく、富士通研究所所属の方が発明
した『低雑音HEMT(高電子移動度トランジスタ)』の技術開発(或いは工業化)
に深く係わっていたのでしょう、甲府工場の管理職の地位に就きました。当時
会った折に、他社の追従を許さない新製品(最初は電波天文学に、次に人工衛
星との通信に使った。今、身近なところでは衛星放送のパラボラアンテナに使
用。)の話がありました。更に、富士通では特定の管理職へは、社長が直々に
賞与を手渡し、その時小さい声で「ご苦労さん」と言ってくれる等の話をして
くれました。(この新トランジスタの技術開発で、同僚の方々とある産業賞を
受賞した様に思います。余談ですが、私は甲府工場の見学の機会を逃しました。
しかし、同級生の中には、見学に訪れた方がいまして、太田さんの説明を直に
聞いています。)

 54歳になったときに、シンガポールにある富士通の関連会社の社長に就任し
て定年近くまで過ごしました。国外の学会の折に寄らないかと誘ってくれまし
たが、南回りのフライト利用の機会が無く終わりました。途中で「初期の癌の
手術を受けたが、すっかり元気になった」と手紙が来て安心していました。昨
年3月に会ったときは、上記のような話をしました。

 1月4日の通夜に、富士通に関係する方々が多数参列したことから分かるよう
に、「太田さんの人生は、幼少の頃から社会のいろいろな仕組み(人間関係、
事業経営等)を勉強し、旧文理学部で物理学等の基礎教育を受けて、大学院で
は実験技術を学び、富士通で20世紀後半の産業の代表である半導体の製品化
(『低雑音HEMT』)に深く関係し、その後関連会社の経営にも参画した立派な
人生だった」と言い切れます。

 更に、旧文理学部では、物理学教室に隣接していた化学科の学生諸氏との親
しい交流もあった様で、5日の告別式に化学科の同窓生が何人も参列してくれた
ことを、後日三沢さんが教えてくれました。これは、太田さんの天性の人柄を
如実に表しています。

「太田さん、人生のいろいろな智慧を教えてくれて有り難う。さようなら」

======================================================================   
  ■ 信州大学全学教育機構 現代職業概論【SUNS】の講義を担当して ■

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                    太平 博久(理学6S/電子研究室・潟jコン知的財産本部)
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  /⌒ヽ彡     2009年10月21日(水)午後に、全学教育機構の
 <)∂ ゝ    講座の一コマとして、在学生約70人に講義を行なう機会
⌒ヽ‐/⌒フ   をいただきましたので、その概要を報告させて頂きます。
⌒(  ミ彡
  _」」      講義のタイトルは、「企業における知的財産業務--- 技
                  術と法律の境界を超えて ---」とし、私の潟jコンへの就
職以来30余年に亘る経験にもとづいてのお話を致しました。

 そもそも本件講師の要請は、物理同窓会の事務局員でもある志水先生から同
じく事務局の近藤さん経由にて打診を頂きました。これまで、発明協会の人材
育成研修の一環で1日の講義を担当したり、知財検定のフォローアップ研修の
半日講師を担当したりの経験はありましたが、現役学生向けは経験がありませ
んでした。物理同窓会としての要請であったこともあり、お世話になった母校
への少しでも恩返しとなればとの思いから引受けることに致しました。

 講義会場は、理学部の多目的室でここから工学部、繊維学部、農学部の3箇
所へ同時にTV中継され、各地での受講生の様子も分かるという素晴らしい環
境でした。

 全学教育機構とは、昔の教養学部に相当し、講座の概要は大学のシラバスに
よると下記のとおりとなっています。

1)授業のねらい	社会状況が急激に変化している現代社会において必要となる
        社会観、倫理観、職業観、生活指針、ビジネスマナーなどを、
        企業人の体験を直接聞くことによって、将来の職業選択に役
        立ててもらうことを期待する。
(2)授業の概要	大学の役割の一つである人材育成がどういうものであるか、
        社会への入口となる学生の就職がどういうものであり、それ
        に大学がどう関わっているかなどが導入部である。ついで、
        企業の第一線で活躍している研究者、技術者が職業の実際を
        紹介し、仕事をすることがどういうことであるかについて講
        述する。この講義は理工系学生を主な対象にしている。
(3)授業計画 第3週から第14週の講義は理・工・農・繊各学部のコーディネ
       ートによる授業です。10月1日以降改めて確認してください。

第1週 学長(予定)及び理事(教学)「大学の社会的役割(人材育成)」
第2週 理系学部コーディネーター教員 「学部における就職活動と就職状況」
第3週−第14週 各種企業の研究者及び技術者による講義
第15週 まとめ
(以上は信州大学のWEBサイトからの転記です。)

 さて、私の講義は後期の3回目ですので、上記授業計画からすると企業人か
らの講義としては最初であったようです。講義内容は次のような項目とし、発
明協会での半日の講義のエッセンスを抽出して、企業における特許とはどんな
ものかを自らの経験例を挙げつつ特許戦争の実情の一端を紹介することと致し
ました。

 50頁近い資料に沿っての約90分の講義と致しましたが、講義後の受講生
からのレポートを成績評価のために読ませて頂いた結果からは、概して特許戦
争の実情についての理解をして頂けたことに安心しますと共に、求められる人
材像との期待には熱意ある感想を頂き、感激致しました。

【講義項目】
   1.企業における特許
    1)世界的著名人の特許との関係
    2)知的財産の多面的保護
  2.企業における特許出願の考え方
  3.特許管理の実際
    1)自社特許管理  
       2)他社特許管理
    3)特許管理(技術情報管理)の体制
  4.企業における知的財産業務の位置付けの変遷

 私の講義内容の紹介として、複数の受講生からのレポートの一部をいくつか
下記に抜粋させて頂くことに致します。まず、"(1)この講義の内容をまと
めなさい。(700字以上)"から、

「企業における知的財産業務の実態を学んだ。企業において、特許や著作権に
まつわる知的財産は会社の利益について重要であり、不用意に第三者に取得さ
れてしまうと発明自体を利用できなくなる恐れがある。この為、高度成長期以
降企業の自主技術開発が発展した後、特許管理が企業の経営に必要不可欠とな
った。」

「現代社会において、中でも企業にとって技術などの知的財産の有無は企業の
活動そのものを左右する大きな問題であり、企業戦略の一つとして欠かせない
ものとなっている。日本はアメリカと比べ特許に関して出遅れていたが、高度
経済成長期以降、企業の自主技術開発が進展し、企業の研究開発部門から発明
が生まれることも多く見られる様になり、特許管理の重要性がますます大きく
なった。何故なら、発明も特許として保護していないと独占できず利益を得ら
れなくなり、その上、他人に特許を取られると自分でもその発明を使えなくな
る可能性があるからである。」

 そして、下記のレポートでの記載は、私が理解して欲しかった特許戦争の本
質を極めて良くまとめてくれています。

「製品の発表と販売は、周辺技術の出願を終え、特許の出願を行った後に行わ
なければならない。これは周辺技術の特許を他社が先に取得した際に将来の改
良品の作成、販売ができなくなる恐れのあるためで、基本特許の出願から一年
半後の公開までの間に周辺特許出願による特許網形成が必要である。これには
他社に製品販売の先を越されない為に発表までにとにかく関連出願を終えるこ
と、関連特許の公開までは発表内容を可能な限り抑えることなどが含まれる。
また、他社の周辺特許を取得したとしても第三者の特許を侵害する製品を自由
に実施することはできない為、基本特許をとられた第三者としては、周辺特許
を取得することで基本特許の権利者と対等になりえる。これらが特許の取得に
関する競争における戦略の基本原理である。」

 次に、受講生からのレポートの"(2)この講義から、あなたが学んだこと
を記しなさい。(700字以上)"からは、以下を挙げさせて頂きます。

「特許の取得について、そのもの自体の基本特許だけではなくそれにまつわる
周辺特許をとらなくてはならないとは驚きでした。基本特許をもし他社に取ら
れてしまった場合に周辺特許の取得などで権利の主張を行い、権利の奪い合い
を行う。これらの特許網の作成に伴う一連の知的財産の争奪戦はまさに現代
の陣取り合戦であり、特許戦争と呼ぶにふさわしいと思います。」

「企業で知的財産を管理する仕事をしている講師の太平さんの講義を聞いて僕
が一番感じたことは企業で働く上で大学では理系や文系といった概念はないと
いうことだ。 太平さんは理学部の卒業生だが、実際の仕事では裁判にかかわ
る事もあり、技術についての知識はもちろん、特許法も理解していなければな
らない。 大学で学んだ、自分の専門の知識だけでは実際の職場では通用しな
い場合がある、と思った。 

 そこで、一年時に学ぶ教養や自分の興味のあるものを自ら学ぶことが非常に
重要となると思う。時間のある大学時代に単に自分の専門分野を学ぶだけでな
く、自分の専門とは全く関係のない分野を学ぶことも必要だと感じた。」

「太平先生が最後におっしゃっていた『一芸に秀でる』という言葉も、大切に
したい。日本に「一芸に秀でるものは多芸に通ず」ということわざがあるよう
に、私は一芸に秀でるということは、その秀でた分野だけでなく、他分野にお
いても勘を働かせることができると思っている。ビジネスにおいても研究にお
いても、この一芸に秀でることは重要だろう。そのために大学ですべきことは
何か? 自分が熱中できる対象を見つけることも大切だとは思うが、まずは学
問に専念することも同じくらい重要だと考えている。学問においては浅く・広
く学ぼうとして情報の波に呑まれるのではなく、深く掘ることが鍵だろう。深
く掘る専門知識においても、その知識が他の知識とどう繋がっているのか・社
会にどう反映できるのか、及ぼしうる知的貢献についてなども考えられるくら
いの、広い視野をもてるようになりたいと、今回の講義を聴講して思った。 
『誰にも負けないこだわりを1つ持つこと』、これが聴講後の私の大学生活に
おける目標だ。」

 最後に、"(3)担当講師に質問や意見があれば、記しなさい。"から、

「特許を取るということは、今の私には上手く想像ができなくて、難しいこと
だと勝手に思い込んでいたのですが、太平さんの講義で、より一層興味を持ち
ました。消しゴムつき鉛筆の例がとてもわかりやすくて良かったです。技術と
法律はほとんど知識がものを言うと思うのですが、経営力はどうしたら向上す
るのかが気になりました。やはり経験と勘でしょうか。社会に出てからも日々
成長できるような人生を送りたいです。充実した講義を聞け、とても嬉しいで
す。ありがとうございました。」

 誠に手前味噌で恐縮ではありますが、現役学生の皆さんからの評価を頂き、
また勉学への励みへの支援をできたことを素直に喜びますと共に、受講生一人
ひとりの今後の勉学と一層の成長を大いに期待致しております。

 以上にて、概要報告とさせていただきます。 

 なお、講演の当日には、物理同窓会の清水事務局長、会報編集長の高藤さん
にわざわざ松本駅までお迎を頂き、帰途にもお世話になりました。また講義の
後には旭会館にて幹事会と懇親会にも参加させて頂き、武田学部長はじめ物理
科学科の先生方や現役の学生諸君とも親しく話す機会を持つことができ、誠に
充実した一日でした。お世話になった志水先生はじめ皆様には、この場をお借
りして感謝申し上げます。

 また、上記のレポートからの各引用については、全学教育機構を通じて作成
者の5人の皆様からの承諾を頂きました。併せて感謝申し上げます。

======================================================================
  ┃O┃B┃/┃O┃G┃の┃現┃場┃か┃ら 《 第11回 》
  ┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━┗━         
    ■ 仮説実験授業に魅せられた37年間 ■
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    渡辺 規夫(理学4S 素粒子論研究室・長野県上田市在住) 14MAR.2010  
                                         【長野県上田東高等学校 教頭】  
--------------------------------------------------------------------- 
       文理の時代を含めて、信州大学物理科を卒業して教職に就いた
 (・>    方は大勢います。渡辺さんもそのひとりですが、本年(2010年)
 /彡))    3月をもって定年退職されます。“「物理教育の研究」というの
/ /      は物理学の研究とは独立した独自な研究分野だった”という発見
/"?k_      を通して教育に邁進してこられた37年間を回顧。これからの計
            画についても触れています。      
--------------------------------------------------------------------- 

◎  空回りの学生時代 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 私が信大理学部物理学科に入学したのは1969年の4月で、卒業したのは
1973年の3月でした。卒業を目前に控えていた時に、「自分は4年間で何
をやったと言えるのだろうか」と自問し、「これをやった。」と言えることが
ない自分に愕然としたことを思い出します。宮地先生の研究室に所属していた
ものの、わからないことだらけで毎日苦しんでいました。私は当時科学史の中
に自分の問題意識に対する答を見いだすことができるのではないかと考えて科
学史の勉強を細々と続けていました。 

◎  高校の教員に 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 1973年4月に長野県の県立高校の教員として採用され、野沢南高校定時
制に赴任しました。教壇に立って驚いたのは教えるということが思っていたよ
りはるかに難しいということでした。準備した授業内容を生徒がまったく受け
つけないということを経験し、生徒にとってどうすればよくわかるのかをいろ
いろ工夫してみましたが、うまくいきませんでした。思うに大部分の教員はこ
の段階から次に進めないまま授業を続けているのだと思います。 

◎  仮説実験授業との出会い 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 私にとっての転機は教員になった最初の夏休みに板倉聖宣さんの『科学と方
法』(季節社)を読んだことでした。学生時代から「どうすれば正しい判断が
できるようになるか」という問題意識があったためにこの本が目にとまったの
だと思います。読み始めてすぐにこの本に魅了されました。夢中になって読み
ふけっている内に、夜が明けかけていることに気がつくことがたびたびありま
した。この本の中に仮説実験授業についての記述がありました。当時の私は仮
説実験授業などという授業にはあまり興味がありませんでした。しかし、読み
進める内にその仮説実験授業という授業に対する興味・関心が次第に強くなり、
その年の11月に大阪府の四条畷市で開かれた仮説実験授業入門講座に思い切
って参加しました。この時の研究会の熱気に圧倒され仮説実験授業をやってみ
たいと強く思うようになりました。 

 仮説実験授業というのは一言で言えば「《授業書》というテキストを用いて
する授業」と言うことができます。この《授業書》というのは「教科書」兼
「ノート」兼「教案」ともいうべきものです。授業書には予想問題が出てきま
す。通常、予想問題を生徒に提示して生徒に予想を立ててもらうことから始ま
ります。たとえば《ものとその重さ》という授業書では、 
「体重計の上に乗って、両足で立った場合、片足で立った場合、しゃがんで踏
ん張った場合では体重計の目盛りはどうなるか」という問題が出てきます。生
徒にこの問題の予想を立てさせ、そう考えた理由を述べさせ、討論させ、実験
によって決着をつけます。(これだけでは仮説実験授業の説明としてきわめて
一面的で不十分ですが。) 

 多くの授業記録を検討して私も仮説実験授業をやってみることにしました。
授業を始めてすぐ、生徒がこの授業を大歓迎していることが伝わってきました。
この授業をする中で私は、生徒が実によく考えていること、実に賢いというこ
とに驚きました。それまでの私は生徒の学習意欲が低いと言って嘆いてばかり
いたのですから、驚くべき変化でした。 
      
 ▼つづきは、次のWEBサイトでご覧ください。
 ◎WEB版→ ( http://www.supaa.com/kikou/watanabenorio01.html )

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   ┃大┃塚┃直┃彦┃の┃ウ┃ィ┃ー┃ン┃便┃り ┃第┃4┃回
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  ◎ウィーンでの冬の過ごし方
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              大塚 直彦(理学24S/国際原子力機関・IAEA勤務)
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 昨年は降ってもすぐ融けていたウィーンの雪ですが、今年は気温が低かった
のかそれとも降雪量が多かったのか、街中から雪の完全に消えるまでかなり時
間がかかりました。昨月はパリ郊外のサクレーにある原子力研究所(CEA)にい
ましたが、ここも似たような天候で雪が積もり日中も氷点下の真冬日でした。

 昨年アメリカから赴任してウィーンの冬を初体験した韓国人の同僚は、「ウ
ィーンは文化的なものもあって良い街なのだけれど、日照時間が短いのだけは
本当に嫌だし、ゆくゆくはアメリカに戻りたい」などと言っています。そんな
ウィーンの冬でしたが、最近は晴れ間の拡がる日が増えてきて、春がもうそこ
までやってきていることが感じられて、嬉しい限りです。  (19MAR.2010)

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   ■ 舞踏会(Ball)はウィーンならではの娯楽
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     o     ウィーンの人たちはそんな冬の余暇をどのように過ごすか
   ⊂二二⊃   というと、例えば、楽友協会ホールやコンツェルトハウスの
  ⊂|   |⊃  演奏会、そして国立オペラ座などの劇場で上演されるオペラ
   |___|    の鑑賞となります。
   ()()()()()   
         ウィーンは夏の約3ヶ月ほどの間は演奏会が激減し、演奏
家はザルツブルク音楽祭に出張したりでウィーンを留守にしますが、その点で
冬は演奏会やオペラのプログラムの充実した時期と言えます。

 演奏会はウィーンに限らずヨーロッパ各地で楽しめる娯楽ですが、その点で
舞踏会(Ball)はウィーンならではの娯楽と言えましょう。舞踏会ももともとは
ヨーロッパ各地にあったのだと思いますが、どういうわけかウィーンにはその
文化が根強く残っているようです。

 ウィーンの舞踏会、というとまず皆さんが思い出されるのは、「会議は踊る、
されど進まず」という言葉でしょうか。このナポレオン体制後を話し合ったウ
ィーン会議が行われたのは、シェーンブルン宮殿と言われるウィーン郊外の夏
の離宮ですが、現在舞踏会が行われる主要な場所の一つは市内の王宮(Hofburg)
です。

 以下に王宮で今冬行われた舞踏会を書き出して見ました。
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  12/31  皇帝舞踏会
   1/ 9  ウィーン経済大学舞踏会
   1/15  将校舞踏会
   1/16  薬局舞踏会
   1/21  オーストリア不動産舞踏会
   1/22  ウィーン農科大学舞踏会
   1/23  ウィーン商工舞踏会
   1/25  狩猟家舞踏会
   1/28  ウィーン工科大学舞踏会
   1/29  ウィーン株式会社舞踏会
   1/30  ウィーン医師舞踏会
   2/ 5  ウィーン珈琲舞踏会
   2/ 6  IAEA(国際原子力機関)舞踏会
   2/13  弁護士舞踏会
   2/15  仮面舞踏会
   2/16  エルマイヤー舞踏学校花輪舞踏会
   2/19  OSCE(欧州安全保障協力機構)舞踏会
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 (ざっと訳しただけなので間違いがあるかも知れません。)

 ●ウィーンの舞踏会の模様を写した写真:
        ( http://www.supaa.com/kikou/im/otsuka/w04.gif )

 これ以外にもオペラ座や楽友協会で開かれる舞踏会は有名です。これらの場
所ではホールの椅子を舞踏会の時だけ取り外すようで、その場に行ったことの
ない僕には会場がイメージがしずらいのですが、いずれも人気のある舞踏会の
ようで、特にオペラ座の舞踏会ともなると有名人がどこに着席するか、などと
いう座席表などが新聞に出てきたりします。

 その他、市庁舎などで行われる舞踏会もあるようですが、聞いた話では踊る
スペースという点で王宮が良いようです。

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   ■ 初めての舞踏会に足を踏み入れる
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 そもそも舞踏会などには余り関わりのなかった僕ですが、以前に山歩きの報
告をした時に登場した青木健太郎君(信大農学部卒業、ウィーンの農科大学で
学位取得)が、農科大学の舞踏会に誘ってくれまして、昨冬に王宮の舞踏会会
場に初めて足を踏み入れました。

 舞踏会の開始時間は21時頃からということが多く、夕飯を食べてから出かけ
ることになります。王宮近くで路面電車を降りるとそこここに舞踏会に行く人
々が見えます。ドレスコードという服装に関する規則が舞踏会ごと設定されて
いて、男性はスモーキング(タキシード)、女性はロングドレスが基本ですが、
農科大学は学生主催だったせいか、とりあえず手持ちの礼服で済みました。

 昨冬の農科大学の舞踏会は「チロル」がテーマとして設定されていたので、
チロルの衣装もOKだったようで多くの人が民俗衣装を着ていました。本場の
南チロル(現イタリア領)から来ていた青木君の友人などは、「みんなチロル
風の服を着てるけど何だか安っぽい怪しいのが多いね」などと言ってましたけ
れども。王宮に着くと切符をもぎる場所で服装がチェックされます。

 王宮では祝祭ホール(Festsaal)と呼ばれる場所がメインの会場となり、祝祭
ホールのテーブル席は開会式などが見られるので人気があります。入場券には
通常の切符とテーブル席付きの切符があり、テーブルではワインなど注文する
ことができるのですが恐ろしく高いのです。

 それでその南チロルの人は、胸元に忍ばせていたひまわりの種やらリキュー
ルなどを時々出していました。(ちなみに南チロルとはチロルのうちアルプス
の南側に拡がる地域で、ムッソリーニ侵略以降イタリア領となったまま現在に
至っていますが、今もドイツ語が普通に話されており地図にも2言語併記され
ています。この南チロル人はウィーンの農科大学を出て農業関係の商売をして
いますが、仕事で使う言葉は殆どがドイツ語だということでした。)

 さて、舞踏会ではまず、開会式が行われ、ゲスト(農科大学の舞踏会なら農
業大臣や各大学長)など次々入場します。祝辞や合唱に続いて模範演技が行わ
れます。

 王宮では祝祭ホール以外にも複数の部屋が会場に設定され、それぞれチロル
の音楽、南米の音楽、ディスコ風の音楽など色々ですが、開会式の間は他の部
屋にも映像で祝祭ホールの模様が放送されます。開会式が終わると各部屋で一
斉に生演奏がはじまり人々は踊り始めます。みんながみんないつも踊っている
わけではなく、お酒を飲みながら談笑している人も多く、踊りに来ているとい
うよりは社交の場に来ているという感じがします。

 深夜12時になると祝祭ホールでは集団レッスンがあり、ダンス学校の先生が
マイクでステップの指示を出し皆さんが従います。

 舞踏会のテーマがチロルでしたからレッスンもチロルの踊りが課題でした。
最初は演奏を途中で止めながら少しづつステップを学び、一通り完成したら通
しで踊るのですが、皆さんちょっとしたレッスンですぐ踊れるようになるのに
驚きます。

 日付が変わると帰宅する人もでて空間にも余裕ができ踊りやすくなり、舞踏
会はその後未明4時あるいは5時頃まで続いておしまいとなります。帰宅時には
スポンサーなどが女性向けのおみやげを出口で用意していて、みなさんそれを
受け取って夜バスやらタクシーで帰宅していきます。
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   ■ ことしは実際に踊ってみました
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 昨冬は何も踊れずテーブルで飲んで踊りを眺めているだけでしたが、踊って
いる人たちを見るとなかなか楽しげなものですから、春から日本人の個人教師
をお願いして週に1度2ヶ月ほど習ってみました。

 そもそも運動会の集団演技などを覚えるのも非常に苦手でしたから、ワルツ、
ウィンナーワルツ、ジルバ、ルンバなど最低限のステップだけ覚え、今冬、や
はり王宮で開かれる将校の舞踏会に出かけてみました。会場は人が多く先生に
教わったようにはなかなか踊れないもので、くるくるとウィンナーワルツを踊
ったつもりになりましたが、端からみていったいどんな風に見えていたのだろ
うか、気になるところです。

 日本でも戦後のある時期ダンスが流行した時期があると聞きます。舞踏会ほ
どウィーンらしい華やかさを味わえるイベントは他になく、普通の切符であれ
ば取りにくいものでもありませんので、冬にウィーンに見える機会のある方で
ステップをご存知の方は、ぜひ衣装を持参されて王宮に足を運ばれてはいかが
でしょうか。

 来月は日本に帰国しますが、札幌での技術会合に続いて済州島で国際会議が
あり実家にも帰れません。いつか松本を訪れて旧交を温めたいと思うのですが
いつになることでしょう。

 ●『OB/OG』第6回→( http://www.supaa.com/kikou/otsuka01.html )
信州大学東京同窓会(2010年)
 
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    ■ 信州大学東京同窓会(2010年)開催報告 ■
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            近藤 一郎(理学12S・信州大学東京同窓会副会長)  
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 2月6日(土)、アルカディア市ヶ谷において、信州大         ☆ 
学東京同窓会の年次総会および講演会、懇親会が開催さ       /
れた。当日は、学長、理事、各学部長、各学部同窓会会    /\┌─┐
長、大学関係者と会員を含め総勢130余名の参加とな   (~~/│~~│
って、前年の設立総会の規模を維持できた。出身学部別    //~'  丶ノ
に参加者数を見ると文理学部33名、工学部20名、医   く   _||_
学部11名、農学部10名、理学部8名、繊維学部7名
と続いており、全学対象の同窓会らしい構成になってき
た。
      ▲▼ 記念講演と学長報告 ▼▲

 恒例の記念講演会では、信州大学学士山岳会理事/日本ヒマラヤ協会理事の
田辺治氏(信大農学部1984年卒)が、「厳冬のヒマラヤ巨大岩壁に挑んだ」
と題して講演した。これまで田辺氏が登山中に撮影してきた貴重な写真80枚
のスライド上映を見ながら、臨場感あふれるお話をうかがうことができた。

 切り立った岩壁のすざましさは目で見なければわからなかったであろうし、
この風景の中に実際に立ったら死ぬか生きるかの判断をする前にすぐ逃げ出し
たであろう、と感じたリアルな写真が続いた。ヒマラヤの8000メートルを
越える高峰へ登る場合、他の登山隊がある山頂を征服すれば、さらに難易度の
高いルートからその山へ登り、次には冬季にそのルートから登るというように
どんどん条件をきつくした目標を立ててチャレンジしてきたという。

 その一例が、日本山岳会冬季支部隊に加わって挑んだ冬のローツェ(851
6メートル、ネパール)南壁である。1999年冬に偵察した後、2001年
冬、2003年冬、2006年冬に隊長として挑戦した。回を重ねるごとに山
頂に肉薄し、ついに2006年12月27日に世界で初めて冬季にローツェに
完登するという快挙を達成した。通常のヒマラヤの気候ではクリスマスを越え
ると風が強くなって進むことができなくなるのだが、このときだけは幸いにも
27日に風が弱まる予報が出たという。

 続く大学からの報告では、山沢清人・新学長から、信州大学が長野県の研究
・教育機関の要となるとともに、総合大学として文系・理系の知の融合を図る
総合的な研究体制を構築したいという抱負の表明がなされた。さらに三浦義正
理事からここ一年間の大学の活動報告があった。 

      ▲▼ 年次総会と新人事 ▼▲

 さて信州大学東京同窓会は、1995年から年1回東京で開かれてきた文理
学部卒業生の懇親会を母体として、各学部同窓会東京支部長または代表の方々
が副会長となり、昨年正式に成立された。その結果、毎年の集会の場で年次総
会を開き、議案審議や役員人事の承認、決算報告とその承認などを実施するこ
とになった。

 それに従って、薬袋正彦(繊維学部)の司会で総会を実施した。根建恭典・
東京同窓会長から、三村武尚(文理学部)をリーダーとする幹事会において各
学部から出ている幹事の協力体制が早くも機能したことへの評価と今後は若い
層や学生との交流にもウイングを広げたい旨を表明する開会の辞があり、続い
て可知偉行・同窓会連合会会長から東京同窓会を全学の力を結集して発展させ
るよう激励を含めた挨拶をいただいた。

 議案審議では、会則の字句修正の承認や、昨年発足した人文学部同窓会東京
支部の二木憲夫支部長の東京同窓会副会長就任の承認、会計報告を行った。最
後に細野征男(工学部)が閉会の辞を述べた。 

      ▲▼ 盛大な懇親会 ▼▲

 懇親会は、笹山広子(農学部)の司会で始まった。徳井丞次・経済学部長な
らびに赤羽清夫・松医会副会長の挨拶に続き、二木憲夫・新副会長(人文学部)
による乾杯の後、来賓、学部、年齢を超えて着席した130余名の出席者が1
2個の円卓に別れて着席し賑やかな歓談の一時を過ごした。

 一昨年(前々回)からあえて出身学部をばらばらにしたテーブルを作ったこ
とが功を奏し、学部や年齢を越えた会話を生み出して全学の同窓会らしくなっ
た。信大現役学生11名のフラメンコ部の面々が加わったいくつかの円卓では、
学生たちへ質問が集中していた。

 続く懇親会名物の余興は約30分間のフラメンコ。女性2人のボーカル、男
性2人のギター伴奏に乗って、女性7人がダンスを披露した。参加者が今回ほ
ど静かに余興に注目したことは記憶にない。恒例のビンゴ大会をはさんで、最
後に「信濃の国」を斉唱し、川口義明(医学部)による閉会の挨拶で散会した。 

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 <再掲>■「同窓会費」は終身会費として1万円。『会計細則』決まる!■
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 1.同窓会費は終身会費として1万円とする。一括払いを原則とするが、本
 人からの申し出があった場合は事務局長が分割払いを認めることができる。

 2.事務局長名で金融機関に同窓会の口座を設ける。事務局長が通帳・印鑑
 を 管理する。会計担当がカードを管理して口座からの出し入れなどを行う。
 
 3.在校生からの同窓会費徴収は、事務局が徴収日を決めて実施する。徴収
 後、在校生の会費支払い者リストは、すみやかに会長ほか、会計担当および
 関連事務局員に伝達する。

 4.金融機関への振込み手数料は会員の負担とする。

 5.会計担当は、年1回開催する総会を利用したり、メールで呼びかけたり
 して、 卒業生からの会費徴収に勤める。

 6.毎年開催の同窓会総会における参加費の徴集など会計管理については、
 その年の幹事が担当し、事務局が補佐する。必要経費は事務局から事前に仮
 払いのかたちで支出できる。幹事は開催後しかるべく早く収支を事務局に報
 告し清算する。 

 7.会計年度を4月から翌年3月とする。           ┳ξ
 会計はすみやかに決算報告を作成                  ●●●
 して会計監査担当から監査を受ける。               ●●
                                                  ●
 8.本細則の改正は総会で行う。
            ┏━┳━┳━┳━┓
 ▼下記いずれかの口座に┃同┃窓┃会┃費┃のお振込みをお願いします!
            ┗━┻━┻━┻━┛
 ------------------------------------------------------------------
  ◆郵便局の場合/通常郵便貯金 
  記号:11150 番号:20343411
  口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
  住所:390-8621 松本市旭3-1-1

  ◆銀行の場合/八十二銀行 信州大学前支店
  店番号:421 普通預金 口座番号:650215  
  口座名義:信大物理同窓会 代表者 武田三男(たけだみつお)
  住所:390-8621 松本市旭3-1-1
           
 ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄ ◎編集後記◎/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄

       ●・・松本に移住して2回めの冬を越しました。信州では「冬
  /\ ☆  来たりなば、春は遠いじ」というそうですが、ことしの冬は何
 │○│    度も雪が降り、昨年とは打って変わってスタッドレスタイヤが
 │ │     大活躍しました。その信濃路にもようやく春の気配です。
/| |\   ●・・ことしから、学科の成績優秀者表彰に対して同窓会から
 ̄ ̄ ̄ ̄    副賞を贈ることになりました。安曇野ガラス工房製作の一輪ざ
 ||||     しに決定。手書きの銘も掘り込まれました。そして、初回はこ
       としの卒業生からということで、3月21日卒業式の表彰に合わ
せて、根建会長に来ていただくことになっていました。が、この日中央線が強
風で大幅に遅れ、小生が代役に。熱気にあふれる若者たちの姿は頼もしいかぎ
りでした。そのうち、女性が10人もいたのには驚き。隔世の感を禁じえません。
●・・2Sではグループメールを楽しんでいます。そのなかで盛り上がったのは、
信大卒のオリンピック選手小平奈緒さんの活躍。女子パシュートでは惜しくも
2位の判定でしたが、Sくんがビデオから静止画を抽出してみると、勝っている
か少なくとも同着。報道機関に問合せる念の入れようでした。      (MT)
○--東京地区は本日(3/22)桜の開花宣言がありました、例年より6日早い由、
信濃路より一足早い春の訪れです。
○--この春の会報は多種多様な記事で且つ興味深いものでした。投稿された方
々に厚くお礼を申し上げます。この物理同窓会のWEBは他の同窓会と比較して、
更新回数も多く内容も充実していると高い評価を得ておりますが、ひとえに皆
様のお陰です。
○--卒業生の顕彰に際して同窓会より副賞を差し上げる事業を起こしました。
若い方々に同窓会に関心を持ってもらい活力あるものにしたく、スタッフ一同
頑張っております。                       (MM)
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■ MAILMAGAZINE BULLETIN 『信大物理同窓会報』0029号(2010年春号) ■
□ 2010年3月27日  編集・発行/信大物理同窓会事務局
《編集委員》松原正樹(文理10)高藤惇(2S)太平博久(6S)岩田真(19S)
□編集長:高藤 惇 □ 発行人:根建 恭典

             ┌──┐  (http://www.supaa.com/)
               │\/│ (info@supaa.com/) (makoto@insatell.co.jp)   
             └──┘     
            ___________________________________________________
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       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄








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