■物理学卒後研修〜
   「文化としての物理学の楽しみ方」

宮地 良彦(信州大学名誉教授/長野県松本市在住)  26JAN.2002

 お断り: この文章は、2001年5月12日に開催された信大物理東京同窓会(ホテルフロラシオン青山)における談話「社会人としての物理の楽しみ方」に加筆したものです。当日ご出席の皆さんには重複となりますが、このたび信大物理同窓会の新しい出発に際して、近藤一郎君からのご依頼で書き直しました。

 * * * * * * * * * * * * * * 


 物理学科の卒業生が卒業後必ずしも物理に関係した仕事についているとは限らない。しかし日常のお忙しい仕事の中で、何らかの意味で物理学への関心、郷愁を持ち続けている方も多いことだろう。というのも物理という学問の特徴は、個々の知識を求めるということよりも、何が物事の本質かを明らかにすることにあるのであって、そのことが、脳やヒトゲノムあるいは宇宙の構造など来るべき21世紀の文化の進展の中で、物理的な思考方法が基本的な役割を演ずるものと期待させるからに違いない。

 私も定年退官以後は物理との相対的な位置は諸君と余り変わらない境遇に置かれているが、50年も物理をやっていると、新聞などに物理学やその周辺に関する記事がでるとつい関心をそそられる。かといって大学まで出かけて専門の論文を読むほどのズクもないし、図書館でそれに関する解説書を借り出す気も起こらない。そんな時たいした手間をかけずに、好奇心とノスタルジャを満足させてくれ、同時に適当な頭の体操によってボケにブレーキをかける安直な方法はないものだろうか。

 このことについて以下私の体験をお話してみよう。いうなれば「物理学卒後研修」あるいはちょっと気取って言えば、「文化としての物理学の楽しみ方」の一つの試みである。

I 物理そのものについての話題

 卒後研修としてもっとも直接的なのは何と言っても物理そのもののトピックスへの非専門家的アプローチであろう。この意味で手に入りやすく読みやすいものを列挙する。

1. 解説雑誌 「パリティ」(丸善)これはScientific American の日本版ニュースで小生は 1985年創刊号から持っている。解説記事、講座、随想など多彩で大変面白い。この雑誌の連載から生まれた「いまさら量子力学」、「いまさら相対論」、「相対性理論の正しい間違え方」などは、絶好の読み物である。
 この雑誌にはまた物理に関するゴシップも入っていて、「お札になった物理学者」などは雑文の種として利用させてもらった。

2. 単行本では 「ファインマン 光と物質のふしぎな理論 私の量子電磁力学」1987(岩波書店)が面白い。この本は経路積分的な考え方を使って、量子力学の確率波や光波の伝播と干渉などについて、物理を全然知らない一般経営者を対象に行った講演で、ファインマンの偉大さを改めて教えられたし、この本をもっと早く読んでいたら、私の量子力学の講義も、もう少しわかりやすくなっていたのではないかと反省させられた。

 講談社ブルーバックス 「パソコンで見る複雑系・カオス・量子」この本は表題のトピックスについてCDで目に見える形で解説してくれる。
 a.カオス 水車のシミュレーション
 穴の開いた 水受け籠のついた水車に、上部の籠に流れ込む注水量と、穴の直径をいろいろ調節すると、水車はある向きに廻り続けたり、あるいは不規則に回転方向 を変えたりする。さらにこういう水車を2個結合した場合などについてのいろいろな不規則的な突然変化が画面で見られる。
 b. 量子 目で見るトンネル効果
 ポテンシャル障壁の高さと幅、入射粒子のエネルギーを調節して、反射率、透過率の変わり方を見る
 本当は波束を作ってやらないと、波の時間的な移動ははっきりしないのだが、私の量子力学の講義では、入射波はexp(ikx)、 反射波はexp(−ikx)と割り切って簡単に計算する。 メシアの教科書には波束を作って時間的変化をたどるという問題が出ていて、ゼミで問題を解いた人は覚えているかもしれないが、講義では面倒なのでやらなかった。
 このトンネル効果の画面を、放送大学の 集中面接という講義の時に学生に見せた。波動関数の確率波の概念と、入射波が透過波と反射波に分かれて行くことが、目に見える形で理解できると大変好評であった。
 c.複雑系 メダカの学校
 スクール運動(集団運動) 外乱による四散や 外乱による集団の分裂が目に見える

II 文化としての物理学

 もうひとつの物理学の楽しみ方は、科学技術の世紀としての21世紀における教養・文化の在り方を考える上での、物理学的思考である。そのためには毎日の新聞・雑誌の記事は切り抜いておくとよい。

 最近興味があったのは、「 立花隆 脳を鍛える (1) 東大講義2000.5 」(新潮社)。21世紀は科学技術の世紀。 官僚や政治家も科学技術を理解できなくてはならぬ 。教養としての科学技術の重要性を説いている。幅ひろい文化論で、こういう講義を聴ける東大生は幸せだなと思いつつ読んだ。但しこの本の(2)は発行されてないようだ。この講義の後半で述べられたトピックスについて、科学史の立場から数多くの間違った記述があることが、名指しではないが読む人によってははっきり分かる書き方で、パリティ誌上で指摘されたからではなかろうか。(高橋昌一郎 「科学哲学のすすめ」 パリティ vol.16.No.7 p.70)

◎「サイエンス・ウオーズ 」問題
 物理を学んだものとして、最近特に衝撃的な出来事として、「サイエンス・ウオーズ 」問題がある。これは近代思想による科学批判およびこれに対する科学者からの反論に端を発する。

★ポストモダン思想
◎J.F.リオタール:すべて表現には一つのイメージに限定されない多様性があるとする相対主義 知識とは物語の一つに過ぎないと主張する。
◎T. クーン 「科学革命の構造」みすず書房 のパラダイム論 科学におけるポストモダン思想
 この派の主張は次の通りである:科学は連続的な進歩を積み重ねてきたと考えられてきたがそうではなくて、科学もまた時代と社会の制約の中で営まれる知的活動である。それぞれの時代における科学者の間で共有される規範的な思考の型(例えばニュートン力学、相対論、量子論)を「パラダイム」と名づけ、時間とともにこのパラダイムが崩れて新しい型のパラダイムにが形成され、古いパラダイムと新しいパラダイムとでは断絶がある。
 科学と言うものは、特定の時代の特定の文化が全面に押し出した、きわめて高度に練磨された規約のセットであって、それはイデオロギー、政治、経済の支配下にあり、歴史的に存在してきた他の多くの言論共同体の一つに過ぎないのであって、科学は他の分野に対して知的特権を持つものではない。
 このように科学の累積性、客観性、実在性を否定し、科学の歴史はパラダイムの転換の歴史として総て相対的な価値しか持たない単なる信念あるいは解釈の体系に過ぎないとする。クーンによると、ニュートン力学と相対論では、質量概念は不連続であるという。古典力学→相対性理論→量子力学という発展も不連続。
 自然科学に限らずすべての思想・文化がそうであるとするのがポストモダン思想である。この一派に科学社会学 フーコー アロノウィッツ、ラトゥール、 デリダがある。

★ 科学者からの反論
  P.グロス(生物学者)、N.レヴィット(数学者) 「高次の迷信」 1994
 ポストモダニズムは、文芸批評や修辞学などの狭い分野で獲得された洞察を安易に増幅しそれをそのまま文化全体に当てはめようとしているもので賛成できない。
「科学は多様な文化の影響を受ける」というのは当然であるが、自然科学およびその研究対象となる自然は科学は客観性を持った実体である。
 実際、力学法則は普遍的真理なのであって、決して信念や解釈の体系ではない。 「嘘だと思ったらビルの屋上から落ちてみよ。身体は確実に粉砕されるであろう」 この反論及びこれに続く両派の一連おの論争が「サイエンス・ウオーズ」

★ ポストモダン派の応戦
「ソーシャルテキスト」特集号 1996でポストモダン派が論陣を張った。 この特集号へ 物理学者のA.ソーカル(ニューヨーク大学教授、高エネルギー物理学)が論文を投稿した:Transgressing the boundaries: Toward a transformative hermeneutics of quantum gravity,「境界を侵犯すること:量子重力論の変換的解釈学について」 (侵犯、抵抗、転覆 はポストモダニズムの多用する用語)
 量子重力の問題を主題に、現代物理の言葉をポストモダニズム風にちりばめた現代科学批判を展開した。
 ところが論文発表後、これが全くナンセンスなパロディ論文であることを、著者自身が暴露し、面目を失った「ソーシャル・テクスト」の編集長アンドリュー・ロスは責任を取って辞任した。
 このいきさつを発表したのが、ソーカル&とブリクモン「知の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用―」(岩波書店)2000 5月。
 ここで言う濫用とは
1. 漠然としてしか理解していない科学理論を長々とあげつらうこと
2. 自然科学の概念を経験的正当化を行うことなく人文、社会科学に持ち込む
3. 全く無関係な文脈に専門用語を投入して博学ぶりを示す
4. 実際には意味のない言葉や文章をもてあそぶ
 この本は哲学、文学、自然科学を含め欧米の学会に大反響を呼び起こした。賛否両論が沸騰し、推理小説の傑作を読むような心の昂ぶりを覚える。

★日本のでのサイエンスウオーズ
 ◎ 村上陽一郎(パラダイム論者):「この事件は、NASAの縮小、SSC計画(superconducting super collider)の挫折以来、大衆の信頼を失墜し、公共財団からの資金援助の低下でフラストレーションの溜まったアメリカの物理学者による左翼、フェミニスト、マルチカルチャリストに対する鬱憤晴らしの反動的攻撃でもあったようだ」イミダス2001年版(集英社)
 プリンストン高級研究所におけるポストモダン派科学論者の人事が科学者の反対で駄目になったのもその現れだという。

 ◎ 雑誌「思想」(岩波書店)誌上での論争:藤永 茂、和田純夫らが科学者の立場から、科学論者特にその代表 村上陽一郎に見解の発表を求めているが、正面からの答えは未だされていない。
 日本の科学論が科学研究の現場から遊離しているせいか? 広重 徹が生きていたら何と答えるだろうか。

 サイエンスウォーズについてのよいまとめは、金森 修 「サイエンスウォーズ」 東京大学出版会 2000 6月(第22回サントリー学芸賞受賞、思想・歴史部門)
 ポストモダン派の立場に立ちながら、かなり冷静にこれまでのいきさつ含めた双方の議論を紹介している。   

 ちなみに小生はポストモダン派の見解には大反対。 質量の概念も、時間空間の概念も、あるいは観測問題も古典力学、相対性理論、あるいは量子論の間で連続的な変わり方をしている。それを象徴するのが、光速度c、作用量子、重力場である。この概念が不連続であるという論者たちには、古典力学、量子論、相対性理論が、それぞれの適用範囲を持ち、しかもそれらが全体としてひとつの宇宙の中の諸現象の正しい記述となっているという事実はまったく理解できないに違いない。

III その他の楽しみ

 インターネットの無料活用
○ 松本テレビの有線テレビでのインターネット開設でネイチャーのサイトの存在を知った。
 http://www.nature.com  
に登録しておくと(無料)、Nature Contents、Science Update Highlights、Nature Japanなどが毎週メールで送られてくる。 
 特に「Nature Physics Portal」は面白い。
research collections(最近2年間の分野別論文の本文)、 Looking Back(古典的論文)
Louis de Broglie の波動と量子、Rochester-Butler のV粒子発見
Problem page 、biology、や物理以外の分野の話題も載っている。

 * * * * * * * * * * * * * * 

 以上思いつくままにだらだらと書き流しました。何かのお役に立てば幸いです。最後に信大物理同窓会のますますの発展を祈ります。



●「信州大学物理同窓会」事務局●

◎ご質問・ご連絡はメールまで。