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「原子核乾板・自動飛跡探策機によるタウニュートリノの発見」という理由で仁科記念賞をいただいた。
「原子核乾板」は放射線検出用に特化した写真フィルムで湯川秀樹の中間子の実証実験など、原子核・素粒子の研究で活躍したが、コンピューター時代の幕開けと共に、顕微鏡の職人芸的観察に頼る原子核乾板は世界中で衰退が始まり、僕が名古屋大学の原子核乾板を使う博士コースに進んだ1972年には、欧米では時代遅れの実験技術とみなされ、特に米国では完全に見捨てられていた。そんな原子核乾板に手を出したのは、原子核乾板のもつ圧倒的な空間分解能、泡箱や半導体(CCD)を圧倒する空間分解能に魅力を持ったからです。
「自動飛跡探策機」は1974年、博士コース2年目に、原子核乾板に記録された素粒子飛跡の高速な読み取りを目的に開発を始めました。原子核乾板に記録された素粒子飛跡の職人芸に頼る顕微鏡による読み取り作業、それは顕微鏡による延々と続く苦行、に疑問を抱き、読み取りの効率化と客観化、精密化の必要性を強く感じました。
研究室自作の並列プロセッサーを駆使する飛跡読み取り装置(自動探策機)が1994年に実働を始めるまでに30年を要しました。
「タウニュートリノの発見」
タウニュートリノは基本粒子(クォーク6種類、レプトン6種類)の一員です。高校で全ての原子は原子核の周りを電子が取り囲み、原子核は中性子と陽子で出来ていると教え、今、大学では中性子や陽子はクォークから作られていると紹介しています。
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タウニュートリノの存在は1976年に予言され、タウニュートリノを検出する実験が立案されて、むつかしさのために頓挫しました。そして「タウニュートリノは存在するに決まっている」と誰もが信じ、あえて困難な実験に挑んだのは自分等(名古屋大学、米国FNAL等)だけでした。タウニュートリノの識別はスーパーカミオカンデではできません。タウニュートリノの識別には1mm程度の飛跡を分析できる原子核乾板が不可欠です。
1998年に第1例目のタウニュートリノ反応がみつかり、2000年までに4例、今7例を顕微鏡の視野の中に捉えました。タウニュートリノは確かに存在していることが検証できました。「自動飛跡探索器」で読み取った素粒子飛跡は10億を超えました。タウニュートリノの探索は干草の山の中から針一本を探す作業でした。
科学研究には時間がかかります。学術のその時々の流行を追っかけていても、職人芸と呼ばれた顕微鏡作業の伝統を守っていても「タウニュートリノの発見」は無かったです。
飛跡自動読み取り装置の開発では信大理学部物理の安江先生から8ビットマイクロプロセッサーの手ほどきを受けました。説明を省きますが、文理の学生として医学部や人文系の学生仲間と同じ教室で、哲学科の渡辺、ドイツ語の中野、生物の池田、数学の小柴、物理の宮地、松崎、鷺坂、森、勝木の諸先生に鍛えられた多面的な価値観と、知識の多様性が「タウニュートリノ発見」の推進力、リーダシップとなったことを強く感じています。
2004年12月13日
【名古屋大学大学院教授 丹羽 公雄(文理17)】
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