第50回仁科記念賞に丹羽公雄氏
(文理17卒/名古屋大学大学院教授)が受賞!
◆…今回の表彰式は、2004年12月6日、東京會舘で執り行われました。列席者には、我が国物理界のお歴々がずらり。教科書などで名を知られたキラ星のような方々が一堂にお集まりでした。それだけに、この賞の重みを思い知らされた次第です。
◆…さて、丹羽さんとはほぼ37年ぶりの再開でした。顔を合わせると、2〜3秒間考えて、やっと思い出してくれた様子。それにしても、腰に手ぬぐいをぶらさげ下駄を鳴らして松本の街を飄々と歩いていた当時の面影はそのまま。どこかは薄くなったとはいえ(失礼)、とくに眼の輝きが全然衰えていない強い印象を受けました。奥さんいわく「信大の人は変わった人が多くて面白い、とよく言っていますよ」。おいおい〜、それって・・・(笑)。
◆…とにかく、丹羽さん、おめでとうございます!! こうして我が国物理界の最高の栄誉を手にされたことは、われわれ同窓生および後輩の学生たちにとって、たいへん大きな励みと慶びになっていることは確実です。
(後日、ご本人からの寄稿文いただきましたので、追加掲載いたしました。)

 本年度は、国内21件の研究の推薦がありました。選考委員会 (委員長・伊達宗行 大阪大学名誉教授)で審査の結果、以下の2名の研究が選ばれました。

丹羽 公雄 (ニワキミオ)   
名古屋大学大学院理学研究科素粒子宇宙物理学専攻 教授    
■原子核乾板全自動走査機によるタウニュートリノの発見    
 タウニュートリノはタウレプトンと対をなすものとして標準理論により予言されていたが、受賞者が率いたDONUT実験はその存在を確認したものである。ニュートリノは物質との反応が極めて小さいので、莫大な反応飛跡の中からごく少数のタウニュートリノによる反応を拾い出さねばならない。彼が提案し、基盤的研究を進めてきた原子核乾板全自動走査機の実用化と、彼のリーダーシップによりこれが可能となったのであった。(→詳細はこちらをクリック)

蔡 兆申 (ツアイ ヅァオ シェン)  
日本電気株式会社 基礎・環境研究所 主席研究員  
理化学研究所フロンティア研究システム・チームリーダー
   
■ジョセフソン接合素子を用いた2個の量子ビット間の量子もつれ状態の実現
 受賞者は、量子コンピューターの素子として期待されているジョセフソン接合量子ビットを2個結合させる事により,量子力学的な「もつれ状態」を実現した.量子もつれ状態は量子力学の本質と深く結びつくものであるが、巨視的な系では困難と思われていた。これを世界で初めて,人工的で制御可能な系で実現した事は世界でも高く評価されており,量子力学の本質をさらに深く理解することにに貢献すると期待されている.



 仁科記念賞は、故仁科芳雄博士の功績を記念し、原子物理学とその応用に関し、独創的で極めて優秀な研究成果を収めた個人あるいはグループを表彰することを目的とする。毎年12月上旬各受賞者に賞状と賞牌、および1件に対し50万円の副賞が贈呈される。

 ここにいう原子物理学とは、原子、分子、原子核、素粒子はもとより、これ らの関与する基礎的なミクロの立場に立った物理学であるが、直接原子物理学 に係わるものに限らず、理学、工学、医学等あらゆる分野において原子物理学 に深い関連のある研究を含むものとする。老大家ではなく、新進気鋭の優れた 研究者に重点がおかれ、ここ4〜5年来の業績、あるいは最近その価値が認め られたものが対象となる。

      (仁科記念財団ホームページより)
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▲「表彰式」を前にして談笑する丹羽さん(中央)

▲列席者にはノーベル賞の小柴昌俊さん(左)も


▲開会の辞は西島和彦・仁科記念財団理事長

▲授与説明は伊達宗行・選考委員会委員長


▲まずはNECの研究員、蔡(つぁい)兆申さんが表彰

▲50回という記念の「仁科賞」を受ける丹羽さん


▲ふたりの受賞者とその令夫人たちがそろって

▲丹羽夫人は名古屋大学での教え子とのことです

■写真撮影/高藤 惇(2S)
 

■ 仁科記念賞の受賞に寄せて ■

流行を追っかけていても、顕微鏡作業の伝統を守っていても「発見」は無かったです。

 
「原子核乾板・自動飛跡探策機によるタウニュートリノの発見」という理由で仁科記念賞をいただいた。 

「原子核乾板」は放射線検出用に特化した写真フィルムで湯川秀樹の中間子の実証実験など、原子核・素粒子の研究で活躍したが、コンピューター時代の幕開けと共に、顕微鏡の職人芸的観察に頼る原子核乾板は世界中で衰退が始まり、僕が名古屋大学の原子核乾板を使う博士コースに進んだ1972年には、欧米では時代遅れの実験技術とみなされ、特に米国では完全に見捨てられていた。そんな原子核乾板に手を出したのは、原子核乾板のもつ圧倒的な空間分解能、泡箱や半導体(CCD)を圧倒する空間分解能に魅力を持ったからです。

「自動飛跡探策機」は1974年、博士コース2年目に、原子核乾板に記録された素粒子飛跡の高速な読み取りを目的に開発を始めました。原子核乾板に記録された素粒子飛跡の職人芸に頼る顕微鏡による読み取り作業、それは顕微鏡による延々と続く苦行、に疑問を抱き、読み取りの効率化と客観化、精密化の必要性を強く感じました。

 研究室自作の並列プロセッサーを駆使する飛跡読み取り装置(自動探策機)が1994年に実働を始めるまでに30年を要しました。

   「タウニュートリノの発見」

 タウニュートリノは基本粒子(クォーク6種類、レプトン6種類)の一員です。高校で全ての原子は原子核の周りを電子が取り囲み、原子核は中性子と陽子で出来ていると教え、今、大学では中性子や陽子はクォークから作られていると紹介しています。
 
 タウニュートリノの存在は1976年に予言され、タウニュートリノを検出する実験が立案されて、むつかしさのために頓挫しました。そして「タウニュートリノは存在するに決まっている」と誰もが信じ、あえて困難な実験に挑んだのは自分等(名古屋大学、米国FNAL等)だけでした。タウニュートリノの識別はスーパーカミオカンデではできません。タウニュートリノの識別には1mm程度の飛跡を分析できる原子核乾板が不可欠です。

 1998年に第1例目のタウニュートリノ反応がみつかり、2000年までに4例、今7例を顕微鏡の視野の中に捉えました。タウニュートリノは確かに存在していることが検証できました。「自動飛跡探索器」で読み取った素粒子飛跡は10億を超えました。タウニュートリノの探索は干草の山の中から針一本を探す作業でした。

 科学研究には時間がかかります。学術のその時々の流行を追っかけていても、職人芸と呼ばれた顕微鏡作業の伝統を守っていても「タウニュートリノの発見」は無かったです。 

 飛跡自動読み取り装置の開発では信大理学部物理の安江先生から8ビットマイクロプロセッサーの手ほどきを受けました。説明を省きますが、文理の学生として医学部や人文系の学生仲間と同じ教室で、哲学科の渡辺、ドイツ語の中野、生物の池田、数学の小柴、物理の宮地、松崎、鷺坂、森、勝木の諸先生に鍛えられた多面的な価値観と、知識の多様性が「タウニュートリノ発見」の推進力、リーダシップとなったことを強く感じています。

          2004年12月13日

  【名古屋大学大学院教授 丹羽 公雄(文理17)】

 


●「信州大学物理同窓会」事務局●

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