■ 現代工業社会からの脱却こそが、
脱原発を可能にする ■
勝木 渥(元信州大学教授/東京都多摩市在住)
【 目次 】
1.私の読んだ、最良の、原発礼賛の論文 ― エネルギーの質(時間的・空間的密度)
2.お粗末な日本の原発推進派の議論 ― 原発推進派の学問的怠惰と道徳的退廃
3.原発推進派のお粗末な議論が、反原発派・原発推進批判派に及ぼした負の影響
4.エネルギーの質の問題詳論
5.現代工業社会からの脱却こそが、脱原発を可能にする
本稿は信州大学物理同窓会メールマガジン会報(季刊)に連載されたものです。
1章、2章、3章 2011年秋号(2011年9月30日配信)
4章 2011年冬号(2011年12月29日配信)
5章 2011年春号(2012年3月28日配信)
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1.私の読んだ、最良の、原発礼賛の論文 ― エネルギーの質(時間的・空間的密度)
物理教育研究のための国際組織GIREP(物理教育研究国際グループ)は学校
(初等・中等学校)での、物理の授業(原子の授業、運動量の授業、物質構造
の授業、量子力学の授業、無秩序disorderの授業、等々)の研究会を1975年以
降、毎年のように開いているが、1983年5月にはハンガリーのバラトン湖畔で
Entropy in the School(初等・中等学校でのエントロピーの授業)の研究会
を開いている。
その第13論文は、Hard energy − soft energy と題する論文で、著者はフ
ランスの電力公社の広報課に所属するティンバル・デュクロ Timbal-Duclaux
という人である。表題からはエコロジストのエネルギー論議だろうとの印象を
受けるが、著者の所属がフランスの電力公社であることから予期されるように、
原子力発電を手放しで礼賛する立場に立った論文である。
頑固な反原発論者であると自覚する私の立場はかれの立場とは相容れないが、
かれの原発礼賛の立場から書かれたこの論文は、論点が非常によく整理され、
議論は明快で、私にエネルギーの質の視点からの考察の重要性を認識させ、
そのことによって、私は私の認識を大いに深めることができた。
かれが論じていないもの(論じようとしていないもの)・かれにとって思い
も寄らないことは、原子力発電の正常運転の持続のために必要な労働に伴う労
働者の放射線被曝の問題、運転に伴って発生する廃棄物とそれの処理の問題、
起こりうる事故の重要性の問題である。
この論文の、概要を述べた前書きには、エネルギー関係の多くの出版物は、
問題を量の問題として扱っているが、種々のエネルギー源の質の問題がそれ以
上に重要である、と書かれている。エネルギー源の質(=時間的・空間的密度)
の問題(の自然科学的認識)は、現在の日本の原発論議の中で、原発擁護・推
進派の主張からも、反原発派・原発推進批判派の主張からも、ほとんど完全に
欠落している。
2.お粗末な日本の原発推進派の議論 ― 原発推進派の学問的怠惰と道徳的退廃
このティンバル・デュクロの論文に比べると、日本の原発推進派の議論は、
極めてお粗末である。何故こんなことになっているのか。
1970年代初期の原発推進派は、原発に関して放射性廃棄物の廃出を原発のア
キレス腱であると認識し(核融合発電では放射性廃棄物の廃出はないとの前提
で)原発は核融合発電実現までの過渡期の技術であると位置づけていた。すぐ
にも(あるいはかなり近い時期に)実現すると期待していた核融合発電が、ほ
とんど無限のかなたへ遠のいてしまった現在では、このような位置づけは消え
去り、温暖化問題を奇貨として、原発推進派は原子力発電は
(CO2 を発生しないから)クリーンな発電である
と宣伝するに至っている。
このことは、日本の原発推進派が学問的にも、道徳的にも堕落してしまって
いることの、あられもないで証拠である。
また、その後の原発推進派の議論の進め方は、電力会社と政府のなれ合いと
それへのマスコミの迎合に基づいて、「寝た子を起こすな」とばかりに反原発
派や原発推進批判派からの問題提起にまともに答えようとはせず、安全性を優
先させたら原発の作りようがないというような戯言(たわごと)を、保安の責任
を持つ政府の機関の責任者の地位に就いた(原発推進の立場に立つ)学者が臆
面もなく公言するような状況であった。
反原発派や原発推進批判派と原発推進派との間に噛み合った討論を成り立た
せると「寝た子が起きてしまう」恐れがあるので、討論のない状況・討論を成
り立たせない状況を、原発推進の立場に立つ国・業界がその総力をあげて意図
的に作り出してきたのである。
3.原発推進派のお粗末な議論が、反原発派・原発推進批判派に及ぼした負の影響
このような状況は、反原発・原発推進批判派にとっても不幸なことであった。
対立者との深いレベルでの討論を展開して、自分たちの理論を深め高めるとい
う機会が持てなかった ― エネルギーの質の問題の重要性の認識に到達しえな
かった ― からである。
それはまた、原発推進派にとっても、不幸なことであった。反対派との討論
によって自分たちの認識を深め、見識を高めるという機会を自ら葬り去ってし
まい、全く低レベルの議論を庶民を煙に巻くためにのみ展開するという学問的
堕落と、放射性廃棄物が環境汚染の凶悪な元凶でありうるという(自然)科学者
周知の事実を覆い隠して、「原発は二酸化炭素を排出しないからクリーンなエ
ネルギー源である」との見えすいた嘘を得々として吹聴するような道徳的退廃
に、自らを追い込んでしまったからである。
4.エネルギーの質の問題詳論
秋号の1で述べたティンバル・デュクロの論文の序文には、エネルギー関係
の多くの出版物は、問題を量の問題として扱っているが、種々のエネルギー源
の質の問題もそれに劣らず重要であり、実際問題に関しては質の問題が第1に
重要である、と書かれている。
この論文から私が読み取ったことを、以下に簡単に書く。
実際問題としてのエネルギー問題は、さまざまの用途に応じて、どんな型の、
どのような質のエネルギー源が必要かという問題である。エネルギーの型には
「貯蔵型」(石油・石炭・ウランなど)と「流れ型」(太陽輻射・水力・風力な
ど)とその中間のもの(地熱・バイオマスなど)がある。個々の用途(物品の加工
・輸送・照明・加熱・調理など)に着目し、それぞれの用途について、どのよ
うなエネルギーの質が求められるかを考察する。
エネルギーの質に関する2つの基本特性は、その密度と供給のむらのなさ
(regularity)とである。エネルギー密度は所与の体積に含まれるエネルギー量
であり、小さな体積に多量のエネルギーを含む物体はエネルギー的に濃厚であ
り、大きな体積中にわずかしかエネルギーを含まなければエネルギー的に稀薄
である。
エネルギーは時間的に一様に連続的に生ずるなら、むらがない(regular)と
いえる。逆に、むらのある(irregular)エネルギーは(周期)変動的であったり、
間欠的であったり、偶発的であったりする。
あるエネルギー源の密度とむらのなさの結合は,第3の因子=更新可能性
(renewable nature)に関連付けられる:流れ型のエネルギーは更新可能だが、
貯蔵型はそうでない。エネルギー源は、それがおおむね瞬間的に復元されるな
ら更新可能的であり、ほどほどの時間が経った後に復元されるなら半ば更新可
能的であり(例えば、バイオマス・地熱)であり、一度消耗すれば(人類的時間
スケールでは)無くなってしまうなら更新不能である(例えば、化石燃料)。
これら3つの特性は密接に関連しあっている.実際上、エネルギー源が濃厚
かつ貯蔵型であれば更新可能性は小さく、稀薄でむらがあれば更新可能的であ
る。
これによってエネルギーを分類すれば
| 貯蔵型 | 中間 | 流れ型 |
密度 | 高 | 中 | 低 |
むらのなさ | 高 | 中 | 低 |
更新可能性 | 不可能 | 半ば | 可能 |
存在場所 | 地下 | 地表近く | 大気圏
|
主なもの | ウラン 石油 天然ガス 石炭 泥炭 | 地熱
バイオマス |
海や風や太陽 からの エネルギー |
濃厚エネルギー源はどんな種類の用途にも利用にもできるが、稀薄でむらの
あるエネルギー源は高濃度での利用は難しい。実際、エネルギー消費の 85%
を濃厚エネルギー源が占め、中間エネルギー源が 15%を占めている。稀薄エ
ネルギー源の寄与は無視できるほどでしかない。電気はエネルギー運搬の装置
である。
この分類を見れば分かるように、現代工業社会の存続のためには、高濃度
(高密度)・貯蔵型エネルギー源が必要不可欠である。
5.現代工業社会からの脱却こそが、脱原発を可能にする
現代工業社会は、それぞれの生産や消費(これは労働力の再生産である)の
現場が必要とする形態で、時間的・空間的密度の充分に高いエネルギーが安定
して供給され続けていくことが必要であること、そして、この社会的要件を満
たしうるエネルギー源は必要な配電網をともなう原子力発電・火力発電・大型
水力発電しかないことを、これまでの議論で明らかにしてきた。
原子力発電は、大規模事故のさいの取り返しのつかない状況の発生、小規模
事故のさいの放射性廃物のまき散らしだけでなく、正常運行のさいでさえ被曝
労働を必要とするという非人道性(現実の世界では、被曝労働の担い手は何重
もの下請け業界の末端で働く底辺労働者であり、かれらは明日の命で今日の糧
をまかなっている)が避けられず、棄て場のない放射性廃物が産出・蓄積され
るという重大な欠点と、廃炉のさいにも厄介な後始末が必要なことなど、さま
ざまな重大な負の側面をかかえているが、これら一切の負の側面を度外視して、
設備の規模と発電量との比という、差し当たっての短期的な有効性という視点
に立てば、3者のうちで最も勝れている。
現代工業社会の存続を前提とする限り、原子力発電からの社会的離脱は不可
能である。発展途上国が概して原発の導入を望むのは、現代工業社会で搾取さ
れる立場にあったその国が、現代工業社会を無くそうとの立場に立つのではな
くて、自国を現代工業社会で搾取される立場から脱却せしめて、自国に現代工
業社会を打ち立てようと企図するからである。
再生型エネルギー源は現代工業社会が必要とする「(時間的・空間的に)高
密度のエネルギーの安定した供給」という条件を満たしえないから、現代工業
社会の基本的エネルギー源にはなりえない。再生型エネルギー源が基本的エネ
ルギー源となりうるような社会を築くことが、脱原発を社会的に実現するため
の唯一の道である。では、その社会とはどのような社会であろうか。
再生型エネルギー源の発電量は、その時々の条件によって増減するから、そ
れを基本的エネルギー源となしうる社会は、発電量の増減に応じて電力消費の
増減をなしうるような、「地産地消」的な規模の社会となるであろう。
その社会では人々は充分な教育を受け、自らの問題意識に基づいて自発的に
学び、よく考え抜くことによって得られた自分の意見とそれを適切に表現する
能力とを持つと同時に、他の人が同様の過程を経て身につけた(自分とは違う)
意見を理解しえて(ある意見を理解することと、その意見に同意することとは
別のことである)両者の間で噛み合った議論が出来、そのことを通じて両者の
意見が互いに深まり高まっていくことが可能であるような、したがって直接民
主主義による社会の運営が可能であるような社会であるだろう。
このような社会をかりに「コンミューン」と呼ぶことにすれば、世界は「コ
ンミューン」を基本単位とする「コンミューン連帯社会」となるであろう。
そのような社会になってこそ、世界は原発を必要としなくなる。今はまだ私
の観念の中にだけある「コンミューン連帯社会」のいつの日にかの実現を期待
するや切である。