■大学当時から思いつく由無し言など
竹村 一司(文理2回卒/元長野県高等学校長) 04JUNE.2006
会誌への投稿を依頼されたにも拘らず、ウエブ上で諸兄の研究報告を見るに付け、小生には掲載に値するもの皆無のため躊躇せざるを得ず。でも再三の請求があり、内容はフリーとのことなので、大学当時からの思いつく由無し言を綴ることにした。人の生き方はさまざまである。泡沫の浮き沈みに似て時に流されながらも、棹差して漕ぎ続けるのが人の一生であろう。
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思誠寮
昭和25年(1950)春入寮、1室3名。天井には藤村操の辞世「厳頭に立つ・・」の墨痕荒々しい大書あり、また「身を打ち寄する白壁」(寮歌)
も墨書で埋まっていた。夜半の闖入者の語らい、校庭での放吟「嗚呼青春の歓喜より・・」など因習に悩まされる折り、所持金すべての盗難に遭い、これはたまらんと間もなく退寮、下宿に移る。
なお当時寮のホールに1台のオルガンがあり、Kさんがいつも熱心に練習をしていた。そう言えば「ああ、寂寥」のH氏も6年間ここで作曲に没頭したものである。
秘中の秘
もしこのことが無かったら、私は生涯教職に就くことも無く、人生も変わっていたかもしれない。4年生の4月、私は卒業後は友人のコネで、ある製造会社への就職を考えていたが、物理と教職の講座が重なってしまったので、教職単位は諦めかけていたところ、「免許は持っていても損は無いから、これを使ったら。ただし”秘中の秘”よ。」と教職講座の出席カードを何枚もいただき、首尾よくパス。この1片の教員免許証が生涯を左右するとは。M先生に感謝。
<註>同期生7名中4名は高校の数学教師に。私も会社を経て教師の道へ。教頭・校長時代10年を除いて定年まで教壇から数学を。以後予備校、高校、学院の講師。
座布団の下に物理(もののことわり)
3人の先生方(向井、松崎、竹村の諸先生)はそれぞれ異なったキャラクターをお持ちであったが、ハイキングやコンパにはそろって出席いただいた。
浅間でのコンパのとき、先生方の帰られた後のかた付けの折り、座られた座布団の下から折りたたまれた紙幣が出てきたのには我等一同大変驚いた。この金額がいくらであったか、また何方のものか、またどんなお話をされたかは全く憶えていないが、金子をそっと下に置いて立ち去るという奥ゆかしさは、今でも忘れ得ぬことである。
正に「布団の下に物の理あり」の思い頻りである。
かきぶねの牡蠣鍋
松崎先生には卒業後も大変お世話になり、お宅へ伺ってはつい長居をして、よく食事にお供した。
「まつか」のうなぎ、横丁のステーキ、「かきぶね」の牡蠣鍋など一流のご馳走をいただいた。塩尻のRoseGardenへ移られてからは、私が伺うと車の外出を好まれたが、その思いは松本の自宅にあったようだ。1月末にお会いした折り「この次は牡蠣鍋と行きましょう」と、いとも簡単に言われたが、間もなく所沢へ移られた。先日電話をいただいたとき、この話しをすると、苦笑されていた。
先生、いつまでもお元気で。
定年以後
諏訪で生まれ育ち、今も同じ地に住んでいるので、定年と同時に地域の役職が絶えず付きまわるのは、世の常である。区長、福祉会長・・・老人クラブ会長。それでもこれら奉仕活動の中で、他人との共感(sympathy)こそ幸福の源泉と思うときがある。
楽しいことは山登りとテニスと数楽のお話し。
「数楽」20代〜40代に講義
◎ いわしの味噌煮缶:セブンイレブン、ビブンセキブン
◎ 1÷19= (少年ガウスは10秒で) 等など15講
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今年の同窓会は名古屋。昭和27年の夏、名古屋大学へ湖沼の水検査に行ったときの夜、大地震に遭い、あわてて旅館の二階から飛び出し、屋根瓦を何枚も落としたことが思い出される。当時を思いつつ同窓会出席。