■ 徒然れなるままに 
寺尾 洌 (元信州大学理学部物理科学科・物性理論研究室 教授
       /三重県桑名市在住)        04JUL.2008

 理学部創設(1966年)の翌年、物性物理学研究室増設の年(1967年)から教鞭をとっておられた寺尾先生が、本年(2008年)に退職されました。これによって、安江先生とともに「最後のふたり」が去られたことになります。寺尾先生は現在、郷里の三重県桑名に帰り、ほど遠くない名古屋の大学で再び教壇に立っておられます。さらに、これまでの研究の集大成に情熱を燃やしておられます。ますますお元気な先生から、原稿が届きました。

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 皆様如何お過ごしですか。三月末に定年退職しましたが、松本は私が最も長く過ごした町になりました。退職から早くも三ヶ月が過ぎてしまいました。引っ越しは予想外の大混乱で、腹周りの引締めには効き目があったようです。物理同窓会のメルマガを通じて挨拶申上げようと思いつつ遅くなってしまいました。そこへ理学部同窓会からも書けとのお誘いがあり感謝しておりますが、脳味噌も乾燥しており俄に二つは困難です。同じ文章でご勘弁願います。資料を確かめるでもなく徒然なるままに記憶を繰ってみます。

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 一九六七年四月に助手に採用され、二年次になって専門科目を学び始めた1S組の諸君の物理数学演習(高尾保太郎講義)と力学演習(鷺坂修二講義)を県の物理棟西端の階段教室で担当したのが私の仕事始めでした。それから丸四十年、馬齢を重ねました。1S組の諸君の当時の顔や声、共に過ごした情景を今も鮮明に思い浮かべることができます。年が明けて、最低気温が氷点下十七度四分という報道に寝坊してよかったと思ったことも懐かしいひとこまです。

 当時の下宿は源池小学校前の「縣館」という古い下宿屋で、窓の敷居と壁の間から光が漏れておりました。そこに安江新一さんもおりました。先日、あの辺りを歩いてみたら大きな純和風建築が健在でした。県の森で昔を思い出していたら向こうから宮地先生が軽やかに歩いてこられました。四十年前の県キャンパスにタイムスリップしてしまいました。

 旭町へ移転したとき、物理は旧法医学棟の二階に間借りしましたが、一階には解剖室が残っていたので、何かと話題になりました。新校舎の完成を待つ間に、「大学紛争」に遭遇しました。原則と現実を峻別して議論し、現実的であることを合理的とするような俗流処世術を排除し、また、各人の責任を直接問うという厳しい状況でした。

 この体験によって、大学運営の諸問題を考えるとき、原則と現実、自分自身の負うべき責任などを反芻することが癖になりました。最近の信州大学の運営は、「紛争」から学んだはずの教訓をざんぶりと投げ捨ててしまった現状は、彼の「紛争」体験者の一人としての私の眼に、次の「紛争」の舞台が着々と準備されているかのように映ります。

  信州大学で最初に取組んだ物理は、一緒に赴任した勝木渥先生が温めておられた「インバー問題」でした。先生と共同で一九六九年に三篇、一九七四年に一編の論文をJPSJに書き、一九七二年に京都で開かれた磁性体国際会議(INTEREMAG)ではロンドン帰りの勝木先生が講演されましたが、私は英語がチンプンカンプンで、物珍しいだけの国際学会でした。

 インバーの分野に参加していたトロント大学のグラハム夫妻を松本に招きましたが、当時としては一大行事でした。学部長の黒塗り公用車を古畑さんに運転してもらって、小さな碌山美術館や豊かな水と静寂の山葵田に案内しました。米ドルが三百六十円から三百八円、二百六十円と激変するとか、国内で開かれる国際会議参加には学術会議から旅費の補助があるというような戦後末期の時代でした。

 丁度その頃、越南戦争が悲惨を極めておりました。文理改組、理学部発足はこの戦争の経済効果の後押しによると私は思っています。グラハムが松本へ来たのはニクソン大統領によって空爆が再開された頃ではなかったかと思いますが、昼食時に一階エレベータ脇の反戦看板の戦場写真を指差して貧弱な英語で冷や汗をかいて言葉を交わしたことが思い出されます。一九六八年のジョンソン大統領の北爆停止のニュースが流れたのは、物理学会の最中で、阪大石橋の坂道を登りながら樹木に貼られた号外を読みました。

 多くの反戦運動が展開された一方、物理学会を含む日本の学術体制を越南戦争翼賛体制に組込む政略も、ケネディ・ライシャワー路線を継承して活発でした。物理学会も戦争か平和かを巡って何度か揺さぶられ、じりじり押され、パッと跳んでしまい、宇宙ステーションのニュースに至っては、先に頓挫した大型加速器建設の対米協力問題で起きたような批判的議論は影を潜めてしまいました。我々を取り巻く社会状況を私は憂慮しております。杞憂であれと願っております。

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 インバー問題の論文で提示した遍歴電子模型による磁気体積効果の理論の有効性を、色々な実験結果について調べました。今振返って、簡単な模型で旨く行ったものだ、鮮やかだと秘かに呟いてみたくなります。その後は、電子構造を計算して金属合金の磁性を調べて時々論文にしておりました。そして、教養部の村岡芳俊さんに悲しい別れを告げたころ、永井寛之さんによるイットリウム(Y)とマンガン(Mn)でできた立方晶ラーベス相構造金属間化合物の反強磁性の発見がありました。私の在職中の物性分野の松本における成果の中の輝く星であると拍手を贈ります。

 物性グループは、この画期的ではあるが未完成の成果を前にしても、これに総力を結集して展開する体制を構築できませんでした。今更甲斐のないことではありますが、当時何ができたか、何故出来なかったかを吟味することは有意義と思います。手短に言えば、全く誰もやっていない新しいことに全エネルギー、全資源を集中することが怖かった、偉い人に褒めてもらわないと安心できなかったのではないか。そして、滅多にない機会を逃したのではないかなどと考えています。

 刀を返して、最近の研究費配分では実績評価重視の雰囲気が広く蔓延しております。見込みのある研究に資金を集中することは一見合理的ですが、誰もやっていない独創的課題については結果が出てからしか資金を手当てしないということなのでしょうか。何か釦の掛違い、似非合理性のように感じております。最初の一歩は多額の金銭や多数の人手を必要とするものではないことを強調しておきます。

 永井さんの結果を受けて京大のグループが中性子回折実験を行いました。私は、この Y-Mn 化合物の反強磁性を出発点にフラストレーション系磁性にのめり込みました。一九九六年にこの系におけるスピン Jahn-Teller 効果の第一報をJPSJに書き、改良版の第二報を二〇〇二年に広島で開かれた低温物理学国際会議で報告しました。第一報はパイロクロア格子に対する強制歪を考えましたが、第二報は自発歪で、この方が私の好みなのですが、ほとんどの著者が第一報しか引用してくれませんでした。第一報と二番煎じとでは世間の評価に大差のあること、小さな誤りに寛大であることを学びました。

 これらは古典スピン系で考えましたが、定年前の数年は、量子スピン系と量子フォノン系の結合として考えました。修士課程の院生が手早く正確に多量の計算をこなしてくれて、論文を三編書くことができました。二〇〇六年に開かれた京都の磁気国際会議、及び、その序に開かれた大阪のフラストレーション磁性国際集会に楽しく参加できました。量子系の計算には考えるべき課題が幾つか残っており、皆さんに結果を披露できる日を楽しみにしています。

 また、この国際会議でインバー後日談が派生しました。デュィスブルクからこの会議に参加していたエンテルさんに、スピンJahn-Teller効果の論文を説明し、正二十面体対称クラスターに於けるフラストレーションの研究が行詰っていると話していたら夏休みの残りをデュィスブルクで過ごさないかと誘ってくれました。行ってみたら、そこは今もインバー研究の都で、嬉しいことに、我々の三十五年前の論文が若い人たちに読まれておりました。研究者冥利です。多くの方々との出会いの賜物と、旧知の方々の顔が瞼に浮かび、感謝の念がこみ上げてきました。

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 退職後の生活は、月曜に名城大学で学生実験を手伝い、火曜に大同工業大学で力学を講義しております。両大学とも学生時代の先輩と一緒で、楽しく過ごしております。私は若手なのかも。四〇年振りの電車通学ですが、車中の学生たちの姿を見ていると過ぎた時間のことを忘れそうになります。引っ越しの混乱が予想外で、暇になったらと企んでいたことが未だ何もできていません。爽やかに枯れる心境には当分至れそうにありません。皆様、もう暫く友達で居てください。東名阪自動車道を走るときには桑名インター東隣りの我が家で一服してください。



●「信州大学物理同窓会」事務局●

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