第10回
●物性研究と大学非常勤講師
鳥塚 潔(理学13S 物性研究室・千葉県柏市在住) 07SEP.2009
【東京大学物性研究所外来研究員/法政大学・東京理科大学・埼玉大学などで非常勤講師】 

 信大時代は剣道と物理の“文武両道”を目指したという鳥塚さん。大学院は東北大に進み、物性の理論から低温物理学の実験系に進出。その後、最先端の研究を求めてヨーロッパに留学。しかし、帰国してからの職探しに苦労する。東大物性研の(無給の)外来研究員をしながら、首都圏の大学で非常勤講師をつづける。現在の「大学非常勤講師」の実態も知ってもらいたいと……。

 * * * * * * * * * * * * * * 

 私は信州大学の学生だった頃は、体育会剣道部に所属し、4年間剣道をやっていました。全日本学生の大会は日本武道館で行なわれるのが慣例で、選手として1度でも武道館で試合をしてみたい、という夢を抱いておりました。物理も良くできて剣道も強くてという、文武両道の人間にあこがれていました。

 学部4年生の時は、勝木先生の研究室に所属し、卒業研究として、勝木先生の固体物理学のゼミ(テキストはA. Haugの“Theoretical Solid State Physics”)、高尾先生の量子力学のゼミ(テキストはランダウ・リフシッツの 「量子力学」)で勉強させていただきました。

 大学院は東北大に進み、低温物理学の実験系の研究室に入ることができました。低温物理学の研究室を選んだ理由は、ただ漠然と面白そうな分野だ、と感じたからです。東北大に入学した頃は、同じ国立大学でもどうしてこんなに信大とは違うのだろう、と驚いてばかりいました。物理学科の教官数も研究室数も数え切れないほど多く、超低温施設と呼ばれるおそらく数億円はすると思われる規模の実験室もありました。学生も身なりがキチンとしていて、(私もそうでしたが)信大生みたいにジャージを着て登校するような学生は皆無でした。

 1972年に約1mKの低温下で液体ヘリウム3の超流動相が発見され、それから10年ちょっと経過した頃に、私は超低温分野の大学院生になったわけです。 「固体物理」という月刊誌に「超低温」の特集号(1984年Vol.19, No.10)が出たほど、当時としては注目される分野の一つではなかったかと思います。ヘリウム4(約2.2Kで超流動)、ヘリウム3がそれぞれ単体で超流動になることがわかり、次は両者の混合溶液の超流動が注目を集めていた時代です。

 液体ヘリウム3は液体ヘリウム4に約6%まで溶け、これを混合溶液と呼びますが、混合溶液中でヘリウム3が超流動になるのではないか、という予想があり、超流動探しが試みられていました。しかし約100μKまで低温にしても発見されず、現在でも未発見です。低温物理学では、低温を得る作業物質として液体ヘリウム(沸点4.2K)を大量に必要とし、金がかかるわりには論文の書けない分野だということで、物性物理の他分野の人たちからは嫌われていました。実際、私が選んだ研究室にはD4(博士課程4年目)〜D8の人がいて、大学院生の平均年齢は高いものでした。他の研究室にもD4以上の院生はいましたが、とりわけ低温物理の研究室では多かったのです。今でこそ博士課程の院生は3年で卒業させなければいけない、という意識が大学教員の中にはあるようですが、当時の東北大では、3年で卒業させようとする指導者側の熱意は感じられませんでした。私自身も1988年3月にD3が終わった時には博士論文は白紙でした。

 D3の夏に、京都で開かれた低温物理学国際会議に参加しました。ちょうど高温超伝導体が発見されたばかりの頃です。そこで、ヘルシンキ工科大学のロウナスマー教授の低温研究室で研究者を募集しているという話を聞きました。私はちょうどその頃、ヘルシンキ工科大学の低温研究室で1980年代になされていた研究、つまり超流動ヘリウム3の渦の構造の研究にずっと興味と関心を持って眺めていました。いつか自分もそこに行きたいと思い、語学教材のリンガフォンのフィンランド語講座を買い込んだりして、自分の夢を膨らませていました。

 実際には語学を勉強する暇もなく、ほとんど使わないままでした。日々ヘルシンキに行きたいという気持ちを募らせていましたから、研究者募集の話を聞いたときには飛びつきました。そして採用になり、1988年3月に東北大を中退し、モスクワ経由のアエロフロート機でヘルシンキに向かいました。これが私が生まれて初めて乗った飛行機です。フィンランド語はもちろん英語さえもろくにできないくせに、博士課程3年間をやり直すつもりでヘルシンキに乗り込んでいきました。

 ヘルシンキでの生活は驚くことばかりでした。まず研究室の人はみんな朝型であることに驚きました。日本の大学院生は、昼頃研究室に出てきて深夜まで居る、という夜型人間が多く、私もそれに慣れていましたが、ヘルシンキでは朝9時から夕方5時までが仕事の基本時間でした。みんな夕方は早めに帰宅することを心がけていて、大学院生でも、きょうは家でサウナのある日だから、という理由で早めに帰っていくことがあります。サウナが早く家に帰る理由として立派に通用することに驚きました。ただ現実には、低温物理実験の研究室では、冷凍機の面倒を見なければならないので基本時間外に研究室に出向くことはよくありました。

 また、ヘルシンキでは大学院生も給料をもらって研究者とみなされている点が日本と違いました。今日では日本でも大学院生はリサーチ・アシスタントという名目で給料をもらえるようになっているようです。ヘルシンキで4年間を過ごしましたが、その間に私が最も強く感じたことは、「研究をビジネスにしている」ということです。優秀な人材を選抜してそういう人にどんどん良い仕事をしてもらって論文を多く書いてもらえれば、研究室としても研究費がたくさんもらえるという考え方が支配的でした。未熟な人間を一人前に育てるためには時間と金がかかるものですが、育てようという意識は全然ありませんでした。少ない金と僅かな時間で良い成果を出そうという合理性だけが求められていて、そういう意味ではヘルシンキ工科大学は教育機関ではないな、と感じました。

 ヘルシンキ工科大学では、超音波を用いて、超流動ヘリウム3における集団運動のメカニズム、渦の構造の研究に従事することができました。渦を作るためには、1mK以下の超低温状態にある超流動体を冷凍機ごと円筒軸の周りに回転させなければなりません(回転速度は1 rad/s程度)。そのような回転できる冷凍機を所有している研究室は、当時はヘルシンキ・グループだけでした。そういう貴重な冷凍機を使わせてもらえたことは自分には幸いでした。そして1992年の1月に学位をとることができました。

 その後、1992年の3月からイギリスのランカスター大学のピケット教授の低温研究室にポスドクとして雇ってもらいました。イギリス人はユーモアがあって付き合いやすい人たちです。また、古い物やこれまでの自分たちのやり方に固執する人たちでもあります。ランカスター大学の低温研究室でも、超流動ヘリウム3などの実験研究をやらせてもらい、任期の2年間を過ごすことができました。この間、アメリカのオレゴンで開かれた低温物理学国際会議、フランスのコルシカ島で開かれたヨーロッパの低温物理学シンポに参加させてもらったりして、良い研究環境でした。夏休みには、ネス湖やエジンバラに行ったりして旅行も楽しみました。

 1994年3月に帰国しましたが、日本ではバブルがはじけたばかりの経済状況が悪い時期にあたり、就職できませんでした。それで東大物性研究所の無給の外来研究員になり、研究に従事させてもらって今日に至っています。


 最初は超低温部門の久保田助教授(現准教授)の研究室に置いてもらい、久保田先生が立ち上げようとしていた日本初の回転可能な冷凍機の作製にかかわりました。その後同じ超低温部門の石本教授の研究室に移り、初めて固体試料を対象とする実験に従事しました。Van Vleck常磁性体のPrCu6の磁場中比熱、磁化率の測定を行い、面白い結果を出すことができました。磁化率の測定にあたり、SQUIDと呼ばれる測定機を貸してもらったことがきっかけで田島助教授(現准教授)と知り合いになり、今日まで田島研究室に置いてもらっています。

 有機分子性導体の熱伝導度の測定を行ない、論文を出すことができました。データ解析にあたり、勝木先生の「物性論I」で勉強したWiedemann-Franzの法則、フォノン振動のDebyeモデルなどが出てきて懐かしく思いました。

 帰国後1年経過した1995年から、東京近郊の大学で非常勤講師をやりながら生計をたてています。2009年度は、東京理科大、法政大、埼玉大でやっています。大学教員の公募が出るたびにあちこちに応募し、数多く出せばそのうち専任教員になれるだろう、と思っていました。物性物理の実験系一般の公募では多分100名位の応募者があると思います。何度か面接に呼ばれたことはありましたが、いつも最後は不採用でした。

 こんなことを繰り返し、30代、40代が過ぎました。40代前半になると、応募しても面接に呼ばれることはなくなりました。この業界では年齢が若い、ということが就職に決定的に有利になるのです。40代半ばを過ぎると応募するのも嫌になってきました。結局なれないまま十余年が経過し、今日に至っています。今日の一般社会では正規社員、非正規社員との間の大きな待遇格差が社会問題となっています。その縮小版が大学における専任教員と非常勤講師です。

 非常勤講師の待遇は非常に悪く、週に15コマの授業を担当しても年収500万円になることはありません。このへんの事情は、勝木先生が「ある非常勤講師の場合」と題して、日本物理学会誌63巻6月号(2008年)pp.461-464に詳しく記事を書いてくださいました(同じ記事がネット http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/part-timer/part-timer.pdfに掲載されています)。この記事中の「T君」とは私のことです。

 こうして十年以上非常勤講師で生活しながら無給で研究を続けています。社会的身分がない、収入が少ない、ということは結婚の上でも大きな障害になりました。結婚相手を世話してくれる人もいましたが、私のこうした状況を聞き及んで会うのを断ってきたケースもありました。しかしながら、45歳のときに結婚することができ、幸せな家庭生活を送っています。52歳になった現在、柏市内の物性研究所の近くに小さいながらも初めて家を新築中です。普通の人より15〜20年遅れて人生を進行しています。だから定年も80歳くらいにしようと思っています。

 私の知っている人で60歳に近い大学助教(助手)の方がいて、「助教のまま定年を迎えると年金が少なくなる」と言って随分と自分の老後を心配されていました。私の年金はその人よりも大幅に少なくなる見通しですが、私は心配していません。ちょうど、ヘルシンキに行きたい、と強く思い込んでいたら本当にそれが実現したのと同じように、天からの助けが必ずあり必要を満たしてくれると信じています。

 非常勤講師という身分で学生と接していますが、学生気質は我々が学生だった頃とは随分と違うようです。今の学生たちは同学科同学年でも、クラスメートの名前を全部は知らないようです。学生の基礎学力は年々下がっている、と大学の先生方は皆言っています。個別にあれこれ教えてあげてもだめで、「遅刻をせず時間を守れ、授業中は先生の話に集中せよ、挨拶をきちんとせよ」、といった生活指導的なところから改善に取り組まないとだめなんじゃないかな、という気がします。

 また、私は今でもFeynmanの力学や電磁気学、Kittelの固体物理学などを開くことがあります。私が学生の頃、ある先生が「Feynmanシリーズは大学初級向けの教科書ですね」とおっしゃっていましたが、とんでもありません。私が今読んでも教えられることがたくさんあり、感動を覚えます。Feynmanシリーズを早く読破したいと思っています。

 最後になりますが、学生時代にお世話になった先生方、先輩方、同期(13S)の皆さん、本当にありがとうございました。私はまだまだ自叙伝的な文章を書く年齢ではありませんが、パッとしない卒業生もいるな、と笑いながら本稿を読んでくだされば幸いです。

● 関連WEBサイト ●
東京大学物性研究所新物質研究部門田島研究室
http://tajima.issp.u-tokyo.ac.jp/




●「信州大学物理同窓会」事務局●

◎ご質問・ご連絡はメールまで。