第11回
●仮説実験授業に魅せられた37年間
〜37年間の教員人生を振り返って〜
渡辺 規夫(理学4S 素粒子論研究室・長野県上田市在住) 14MAR.2010
【長野県上田東高等学校 教頭】
文理の時代を含めて、信州大学物理科を卒業して教職に就いた方は大勢います。渡辺さんもそのひとりですが、本年(2010年)3月をもって定年退職されます。“「物理教育の研究」というのは物理学の研究とは独立した独自な研究分野だった”との発見を通して、教育に邁進してこられたという37年間を回顧してもらいました。
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◎ 空回りの学生時代
私が信大理学部物理学科に入学したのは1969年の4月で、卒業したのは1973年の3月でした。卒業を目前に控えていた時に、「自分は4年間で何をやったと言えるのだろうか」と自問し、「これをやった。」と言えることがない自分に愕然としたことを思い出します。宮地先生の研究室に所属していたものの、わからないことだらけで毎日苦しんでいました。私は当時科学史の中に自分の問題意識に対する答を見いだすことができるのではないかと考えて科学史の勉強を細々と続けていました。
◎ 高校の教員に
1973年4月に長野県の県立高校の教員として採用され、野沢南高校定時制に赴任しました。教壇に立って驚いたのは教えるということが思っていたよりはるかに難しいということでした。準備した授業内容を生徒がまったく受けつけないということを経験し、生徒にとってどうすればよくわかるのかをいろいろ工夫してみましたが、うまくいきませんでした。思うに大部分の教員はこの段階から次に進めないまま授業を続けているのだと思います。
◎ 仮説実験授業との出会い
私にとっての転機は教員になった最初の夏休みに板倉聖宣さんの『科学と方法』(季節社)を読んだことでした。学生時代から「どうすれば正しい判断ができるようになるか」という問題意識があったためにこの本が目にとまったのだと思います。読み始めてすぐにこの本に魅了されました。夢中になって読みふけっている内に、夜が明けかけていることに気がつくことがたびたびありました。この本の中に仮説実験授業についての記述がありました。当時の私は仮説実験授業などという授業にはあまり興味がありませんでした。しかし、読み進める内にその仮説実験授業という授業に対する興味・関心が次第に強くなり、その年の11月に大阪府の四条畷市で開かれた仮説実験授業入門講座に思い切って参加しました。この時の研究会の熱気に圧倒され仮説実験授業をやってみたいと強く思うようになりました。
仮説実験授業というのは一言で言えば「《授業書》というテキストを用いてする授業」と言うことができます。この《授業書》というのは「教科書」兼「ノート」兼「教案」ともいうべきものです。授業書には予想問題が出てきます。通常、予想問題を生徒に提示して生徒に予想を立ててもらうことから始まります。たとえば《ものとその重さ》という授業書では、
「体重計の上に乗って、両足で立った場合、片足で立った場合、しゃがんで踏ん張った場合では体重計の目盛りはどうなるか」という問題が出てきます。生徒にこの問題の予想を立てさせ、そう考えた理由を述べさせ、討論させ、実験によって決着をつけます。(これだけでは仮説実験授業の説明としてきわめて一面的で不十分ですが。)
多くの授業記録を検討して私も仮説実験授業をやってみることにしました。授業を始めてすぐ、生徒がこの授業を大歓迎していることが伝わってきました。この授業をする中で私は、生徒が実によく考えていること、実に賢いということに驚きました。それまでの私は生徒の学習意欲が低いと言って嘆いてばかりいたのですから、驚くべき変化でした。
◎ 物理教育学が新しい研究分野であることの発見
それからの私は仮説実験授業の勉強をし、その研究会に参加し、授業をしてその結果を検討するということに夢中になりました。全国の有名な先生の授業を見に行きました。そして、自分の授業にも次第に自信を持てるようになりました。「物理教育の研究」というのは物理学の研究とは独立した独自な研究分野だったのです。学生の時には物理学に自信を失いかけていた私が、物理教育の研究者として自信を深めていったのです。私の研究したことの大きな(再)発見とも言うべきことは一言で言うと、「だれでもわかっているはず」と思われていて、しかも最も基本的な概念・法則が実はほとんどの生徒も教員もわかっていないことを明らかにして、それがわかるようにする筋道を明らかにしたということだと思います。
新規採用の先生たちの研修会で講演する機会があり、授業でやっていることと同じ予想問題を考えてもらい、予想を立ててもらったことがあります。そのとき物理の先生になった若い人たちの予想はバラバラに分かれてしまいました。意見を言ってもらうと生徒と同じような多様な(しかも間違った)意見がたくさん出てきました。もちろん実験結果は一つです。実験をしてどの予想が正しかったかがはっきりしたとき、予想がはずれたある先生が言いました。「なんだ。理論どおりになるのか。」物理の先生も予想を立てる時には自分が毎日教えている物理学の理論を使って考えていなかったのです。物理学科を卒業した人でも最も基本的な概念・法則をきちんと理解していなかったということが判明したのです。
◎ 物理学のスピリットに触れる授業
でもそんな専門家にも理解されていないことを生徒に教える意義があるのでしょうか。基本的な概念・法則が理解できていないと困ることがあるのでしょうか。理解できると何かいいことがあるのでしょうか。そんな疑問を持つ人もいるかも知れません。
それに対する答を一言で言えば、最も基本的な概念・法則の理解を通じて物理学のスピリットに触れることができると言うものです。授業を通じて基本的概念・法則を理解した生徒は、そのことによって物理が楽しくなってしまいます。そのため夢中で勉強するようになります。なぜなのでしょうか。それは最も基本的な概念・法則を理解することによって、物理学のスピリットに触れることができるからなのです。それが現象として生徒の「物理は楽しい」という言葉になるのです。大部分の生徒にとって学ぶ意義のあるのは、哲学としての物理学であって、問題解法の説明ではありません。しかし多くの物理の授業は哲学的なおもしろさに触れず問題解法の説明に終始しています。多くの生徒が物理を苦痛と感じるのは無理もないことなのです。
仮説実験授業をすると生徒たちは物理学のスピリットに触れることができ、物理が大好きになります。仮説実験授業をやったクラスの同級会に招待されたとき、何人もの生徒が「先生、オレ物理が大好きだったんだ。」と言ってくれます。彼らは私の授業から物理のスピリットを学び取ってくれたということなのだろうと思います。
私が仮説実験授業をやっているということに興味を持ってくれた勝木渥先生から、依頼されて、理学部で理科教育法の授業を1コマ分させてもらったこともありました。
◎ 仮説実験授業研究の組織論──身近主義の否定
仮説実験授業を始めてしばらくの間、私は身近なところで仲間をつくることができませんでした。しかしこれも今思えば当然のことと言えるでしょう。仮説実験授業は他の教育理論からすると革命的ともいうほどかけ離れた理論なのです。量子力学の考え方が当然となってしまった人が量子力学を知らない人と話が通じないように、仮説実験授業の考え方が当たり前になってしまっていた私の話は仮説実験授業の理論を知らない人にとっては奇想天外な話と感じられたに違いありません。量子力学の建設の時期にボーアのもとに世界中から若い物理学者が集まったように、また、幕末の志士たちが自分の身近なところに同士を得ることができずに、全国に散在する志士と連携したように、私が仮説実験授業の研究で身近なところに理解者を得ることができず孤立し、全国に散在する研究者と連携したのは当然のことだったと思います。
常識的な理科教育では身近なことをまず教え、次第に一般的抽象的なことに進むべきだと考えています。それが生徒にとってわかりやすい筋道だと言うのです。このような身近主義は疑う余地なく正しいと思われています。しかし、身近なものの方がわかりやすいというのは本当でしょうか。よく考えてみれば、それは事実でないことがわかります。惑星の軌道を計算するのは身近ではありませんが、それほど難しくありません。しかし、たとえば2階の窓から紙くずを捨てたらどこに落ちるかという問題は身近ではありますが、解くのはきわめて難しい問題です。身近な問題は簡単に見えて実は解くのが難しい問題が多いのです。しかし、これまでの多くの理科の授業は身近な問題を取り上げてうまくいかないということを繰り返してきました。これは身近であればわかりやすいはずだと思いこんだための失敗です。
仮説実験授業という理論の普及についても同様の問題があります。「同僚をまず説得できないようでは仮説実験授業という理論は信用できない」という人がいます。しかし、身近なところに賛同者を見いだすことが難しいということは仮説実験授業の独創性を示すものではあっても、仮説実験授業が信用できないものであることを示しているのではないのです。
◎ 上田仮説サークルと上田仮説出版
しかし、その後身近なところにも研究仲間が集まって来て「上田仮説サークル」という研究会を作ることができました。このサークルが活動を開始してからもう30年にもなろうとしています。毎月1回膨大なレポートが集まり、夜の1時になっても発表が終わらず私の自宅に集まって朝まで研究会をやるということもありました。当時集まってきた20歳代の青年教師も今はみな中高年となりました。今後どうすれば若い人たちに集まってもらえるかを検討しています。
私が仮説実験授業研究会に入会した頃、仮説実験授業研究会では、「ガリ本出版」が盛んでした。「ガリ本」というのはガリ版刷りの本で、100部、あるいは200部くらいを印刷し、製本して「ガリ本」と称して全国の仲間に売るという活動です。(ガリ版というのは昔の少数部印刷の方式で、私が教員になった頃は授業のプリントやテスト問題はこのガリ版印刷で作ったのです。)自分の身近なところには自分の作る資料に興味を示す人がなかなか見つからないけれど、全国には100人あるいは200人の資料を読みたいという人がいたのです。ガリ本出版という方法は仮説実験授業研究の新たな組織形態だったのです。
私は「上田仮説出版」という出版社を名乗っていろいろなガリ本を出版しました。もちろん本物の出版社ではありません。そんな中で勝木渥先生の高千穂商科大学での「環境科学」の講義案ノートを見せてもらう機会があり、上田仮説出版で出版することを思いつきました。勝木先生から許可をいただき『環境科学』という手刷りの本を50部作ったところたちまち売り切れてしまいました。その後、勝木渥先生から増補改訂版を出版してくれないかという依頼があり、『環境の理論』と称して400部出版したところ好評でした。この本はその後、海鳴社という本物の出版社から『物理学にもとづく環境の基礎理論』として出版されました。よい本の出版のお手伝いができたことをうれしく思っています。
仮説実験授業研究会の中に牧衷という異色の人物がいました。牧衷さんは科学映画のシナリオライターで岩波映画株式会社で多くの科学映画を作り、その膨大な作品は仮説社からDVDで発売されています。私は牧衷さんの話を聞く機会があったときにすっかりその話に魅了され、その話を録音しテープ起こしして印刷して資料として配付したところ大変好評だったので、上田仮説出版の出版事業として牧衷連続講座記録集1〜8を出版しました。この本は仮説実験授業を少し違った角度から理解するのに役立っていると思います。
◎ 教育がよくなるために必要なのは自由
今、世の中の関心が教育に集まっています。自分は教育についてはよくわかっていると思っている人が多いようです。そのためいろいろなところから教育の改革案が次々に出されています。しかし、その中味をよく検討してみると実際にやられたら困ったことになる改革案の方が多く、大変危ない状況だと思います。
多くの人は「力とは何か」「力の働きは何か」誰でもわかっていると思っています。しかし、それは思い違いです。常識的な力についての考えを積み上げていけば力を理解することができるのであれば「力学」という学問は不要です。「橋を架ける」という仕事をするには力学の知識が不可欠で、力学を理解していない人が橋を架けたらその橋は落ちてしまいます。落ちない橋を架けるには力学を学ぶ必要があるように、教育を改革するには専門的な知識や学力が必要なのです。患者を治療するには医学を学ぶ必要があるように。しかし、私たちの研究の影響力はまだ限定的であり、私たちがやるべき仕事がまだまだたくさんあるのだと思っています。
今日の教育が大きく変わらなければならないのは事実ですが、どのように変えていったらいいかということになるとそう簡単な話ではありません。今日提唱されている教育改革案の多くは教育制度の改革案です。それは授業が今のままであるという前提のもとで考えられたものです。しかし、授業を今と大幅に違うものにすることが可能だとしたらどうでしょう。改革案の多くはほとんど無意味なものになってしまいます。今、必要なのは制度改革でなく授業の改革、教室の充実です。そのために一番必要なのは予算増額ではありません。教育の自由、教員の自由です。新自由主義のもとで経済的自由を主張した人たちは教育の不自由化を推進しました。そのため教育、教員が受けたダメージはきわめて大きいものでした。そんな中でも仮説実験授業をやり続けた全国の教員は教育改革案を出している人たちが目標として考えているよりはるかに大きな成果を挙げ続けています。
◎ 私の今後の仕事
私は10年ほど教壇を離れて教頭という仕事をしてきましたが、今年(2010年3月31日)で定年退職となります。退職後もしばらく再任用教諭として教壇に立つ予定です。私のやるべき大きな仕事は、物理教育の研究、教員の自由の拡大、教室の充実、教員研修の充実だと思っています。
昨年の11月12月に信大理学部から教職を目指す学生さんへの講義を依頼され、喜んで3回講義させていただきました。学生さんの授業評価を見る限り満足のいく講義ができたと自己評価しています。いろいろな場面で若い先生方に理科教育について助言する仕事、また多くの人々に科学を楽しむ場を提供することを今後の目標としたいと思っています。理科教育法の講義などの仕事がありましたら、声をかけていただければと思います。
教育という仕事を責任を持ってやろうとすれば、やらなければならないことがたくさんあります。世界史の中に位置づけることができるような仕事をしていきたいと思っています。