■定年を前にして 
山田 銹二(理学部物理科学科教授・物性理論研究室) 03MAR.2006

 1940年お生まれの先生は、ことし(2006年)3月をもって退官されます。名古屋大学工学部出身の工学博士。信大にこられる前には、岐阜大学で研究・教育活動をされていました。理学部の恒例「最終講議」(3月6日開催)の講演題目は『遍歴電子メタ磁性と磁気熱量効果−材料科学への架け橋−』。まだまだこれから・・・脂の乗りきった時期での退官は、惜しまれるところです。たいへんお世話になりました。先生の第ニの人生での、益々のご活躍をお祈り申し上げます。(信州大学物理同窓会事務局)

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 岐阜大学から移ったのが1994年だから、12年間信州大学理学部に居たことになる。最初、信州の冬の寒さが身にしみたが、最近やっと慣れてきた。定年後は、安曇市(旧穂高町)の隣の松川村に住むことになった。松本市の標高は550mぐらいだそうだ。研究室が6階、生活しているアパートも5階だから、どちらも標高600m近くのところで生活していたことになる。

「気圧も低くければ、酸素もそれだけ少ないのでは」などと考えた。酸素量が少なければ、身体の運動量も減らせば良いと、できるだけ身体を動かさないように、あまり運動をしなかった。そのため、体重がかなり増加し、人間ドックでは医者から散々に言われた。学生時代にはサッカー部に所属し、勉強より部活に熱を入れていたときもあったが。

 在職中一番苦労したのが、学生1人1人に適した卒業研究や修論研究のテーマを与えることであった。あらかじめ答えが分かっているようなものは研究にならない。かといって、全く先の見通しがないテーマでは、卒業までの1年間で成果が得られるはずがない。安易に自分がそのとき行っている研究を手伝わせるようなことはしなかったので、それとは別に、ある程度方向性の見えたテーマを出さなければならなかった。

 しかし、「どうやれば良いですか」と時々質問されたことがある。どうやれば良いか分かっておれば自分でやってしまうと思いつつ、「こうしてみたら」とか「ああしてみたら」と思いつくまま返答していた。

 あるとき、修士の学生が研究室にきて、「先生の言う通りやってみたが、駄目だった」と申し出てきた。まるで、テストの解答を尋ねているような雰囲気だった。「それが駄目なら、どうしたら良いか自分で考えなさい。それが研究だよ」と答えた。その学生は、その後自分なりに試行錯誤を繰り返し、最後には立派な修士論文をまとめて卒業していった。こうした経験は、社会に出てからも大変役立っているものと私は確信している。

 何か問題を見つけたとき、その答えをどのように引き出すか。ハムレットではないが、「それが問題である」。最初は、どうしたら良いか全く分からず、試行錯誤を繰り返すうちに何となくある方向性が見えてくる。そして、その方向に向かって推理を進めるうちに答えが予想できるようになる。

 あとは、予想した答えの裏づけをするだけで良いのである。勿論、予想した答えが間違っており、その裏づけができなければ、改めて別の推理を始めなければならない。まるで推理小説に見られるような手法だ。学生時代、ある先生が、「クロフツの書いた『樽』という推理小説の中から自分は物理の手法を学んだ」と言っていたのが思い出される。早速その本を買い、繰り返し読んでみたが、あまり参考にならなかった。

「教育」とは、教えるだけでなく育てることでもあると誰かが言っている。自分は、巧く教え、十分若者を育てることができなかったかもしれない。しかし、皆さんは、単に大学で学んだ知識を活用するだけでなく、卒業研究や修論研究を通して学んだ手法を使い、現在自分が抱える問題を解決してもらいたい。定年を前にして、これが皆さんへの最後のアドバイスになれば幸いである。

 最後に、受験を控えた子供たちが居たにもかかわらず何度も単身で海外に出掛けたり、信州大への転勤のため50才を過ぎてから転居を強いることとなったが、いつも私を支えてくれた家内に感謝する。



●「信州大学物理同窓会」事務局●

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