第8回
●“メスバウア効果”の研究没頭を振り返る 吉田 豊(理学7S 物性研究室・静岡県袋井市在住) 15MAR.2009 【静岡理工科大学 教授/理化学研究所 客員研究員】
吉田さんの研究生活は「松本から始まって、仙台、大阪、ベルリン、ウィーン、そして現在の袋井&東京」とおっしゃるように、世界を身軽に飛び回って(?)成果をものにされた様子。なかでも8年間に及ぶドイツ語圏での生活は決定的だったようです。“メスバウア分光”の研究に没頭し悪銭苦闘するなかで、生涯の友との出会いも。2011年に東京で開催される国際会議の実行委員長としても活躍が期待されています。
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山好きの私にとって、常念岳を眺めながら学んだ松本での学生生活は幸せな時間でした。卒業研究は勝木渥先生のご指導で磁性理論に取り組みました。仙台と大阪で大学院時代を過ごし、その後渡欧。1983年から1991年の8年間をベルリン・ハーンマイトナー研究所とウィーン大学固体物理学研究所で過ごしました。ベルリンの壁がクレーンでつり上げられ壊されていくのを、壁の上に立って目撃しました。
現在は静岡理工科大学に勤務し、大学と理化学研究所で装置開発や“メスバウア分光”による物質科学の基礎研究を行っています。2011年には「メスバウア効果の応用のための国際会議」が東京で開催されることになり、私は実行委員長として準備を進めています。本稿では、これから物理学科を卒業して研究分野に進もうとされている後輩の方々を念頭に、ベルリンとウィーンの研究生活を中心に紹介いたします。
1983年10月3日、ベルリンのハーンマイトナー研究所に着任。Tegel空港からWannseeに着くまでの車窓から眺めた北緯52度の地は太陽が低く、“夕陽”で煉瓦つくりの家々が赤く染まっておとぎの国ように美しかったことを鮮明に記憶しています。研究所は西ベルリンの西の端、ポツダムのすぐそば。緑と湖に囲まれた環境です。研究所が用意した家に向かい、大家さんのFrau Krochmannに”Guten Tag!”と挨拶。そして研究所へ。“クーロン励起メスバウア分光プロジェクト”の一員として同僚に紹介されました。夜はベルリンのメインストリートKudammの店先で、
先生と奥様、そして同僚数名とドイツビールで乾杯。最初は私のことを気にかけていた同僚たちもそのうち自分たちの話に熱中して私はカゴの外。街の暗い明かりと通りを行く人々を眺めながら、これから始まる長い異国での生活を思いました。
Vogl先生(左写真・上)は一見不可能に思える研究を計画し組織することに情熱を燃やし、多くの発見をしています。この7月(2009年)には退官記念のシンポジウムで久しぶりにお会いすることになっています。ドイツ語に関しては、大学2年間と半年間の Osaka Goethe Institutではほとんど身につかなかったので、その後研究所のサポートでBerlin Goethe Institutに週4回、半年間の夜間コースに通うことになりました。
彼らの話の内容がおおよそ理解できるまでには少し時間がかかりました。もちろん歴史や文化的な背景、彼らの思考を知り、深く理解できるまでには8年間すべて必要だったのかもしれません。語学学校ではアフリカやアジア、南欧から来た若者がどんどん話すのを見て、彼らの気迫に圧倒されそうでした。夜の授業が終わってからは街に出て、クラスの仲間とドイツ人や役所の悪口で盛り上がりました。この時は英語でした。皆、初めてのドイツ生活で同じような苦労をしていましたので、連帯の輪がすぐにできました。
語学学校に通った半年間、人と人のコミュニケーションの基本、「お互いに理解できるまであきらめないで話し合う」ことの大切さを学ぶことができました。これが私の出発点になりました。ある日本の先生が出発前に私におっしゃった「中途半端に外国語を学ぶことは研究者にとって時間の無駄」という言葉は間違っていたと確信しています。
さて、ハーンマイトナー研究所ではバンデグラフとサイクロトロンを結合した重イオン加速器VICKSIが運転開始した間もない時期でしたので、研究所が生き生きと呼吸をし、張り詰めた空気が漂っていました。あれほど理想的に組織された研究部門はその後見たことがありません。3交代で働く加速器オペレータ、工作ショップ、真空技術の担当者、また実験に必要な部品、たとえばコンフラット・フランジやネジ、ゲートバルブなどすべて整然とストックされていました。
当時、実験装置のデザインからプロジェクトに参加しましたので、工作ショップの“マイスター”にはずいぶんお世話になりました。簡単な図面を持って相談に行き、片言のドイツ語でのやりとりで説明しますと、200%満足できる答えが帰ってきました。実験中、たとえ深夜でも仕事を依頼することができました。この加速器は特に原子核と電子の超微細相互作用を利用した研究、例えばメスバウア分光(MS)やγ線摂動角相関(PAC・PAD)などを行うのに理想的なパルスビームを提供できるように設計されていました。現在、理研の重イオン加速器を利用して実験を行っていますが、仕事を始めてから十数年経過した今なお、当時のVICKSIの性能には及びません。
残念ながらこの加速器は東西ドイツ統合の流れの中で一部を除いてシャットダウンされています。この加速器の運命は私の研究者としての人生に大きな影響を与えることになりました。左写真・中はベルリン時代の同僚(R.Sielemann, H. P. Gunnlaugsson博士)です。
この時期に行った研究テーマ「物質中の高速拡散」を簡単に紹介しましょう。物質中の原子の拡散は一般的に“原子空孔”を介して起こり、鉄中の鉄は室温で1秒間では動きません。一方、水素原子などの軽元素は原子と原子の隙間に“格子間原子”として存在し、極めて速い拡散が起こります。例えば、鉄中の水素では室温で1秒間に0.1mmも移動します。この移動度に匹敵する高速拡散がジルコニウムや鉛、シリコン中の遷移金属不純物拡散で報告されているのです。
従来のトレーサ法を利用した拡散係数の測定では微視的な拡散機構を直接検証することはできません。この原因を探るために拡散に関する原子スケールの情報が得られると期待されるメスバウア分光を利用して、高速拡散する鉄原子をその場観察しようとしました。ところで、メスバウアスペクトルに拡散によるどのような影響が現れるかは1960年代に理論的に予測され、1980年代初頭までに精力的に実験が行われました。
メスバウアプローブ核である57Fe原子が励起状態の寿命の間に跳躍するような“高温領域”になりますと、プローブ核に吸収または放出されるガンマ線の位相に乱れが生じます。これがスペクトル線幅の増加として観測できますので、線幅増加から求めた拡散係数が評価できます。ところが、当時、メスバウア実験から得られた拡散係数の値は標準的なトレーサ実験から期待される値と比べ2倍だけ異なった実験値が得られており、理論に疑問が持たれていました。
そこで、私たちは2つの目標を設定し、メスバウア拡散理論の検証と高速拡散する鉄原子をその場観察を行うための実験を計画しました。前者は実験室でもっとも単純なモデル系である鉄で、しかも拡散が極めて速くなり非常に大きな線幅増加が期待できるδ相(1400~1540℃)でメスバウアスペクトルの測定を行うことでした。これは世の中の常識「メスバウア効果の観測は低温で行う」とは全く異なる温度領域の測定で、ほとんど不可能と思える実験です。
もう一つは鉄固溶度がほとんどないジルコニウム中の鉄拡散をその場観察するために、重イオン加速器を利用してクーロン励起したプローブ核57Feを生成し、試料に直接高エネルギーで注入し、直後に鉄原子の跳躍過程をその場観察する方法です。
いずれも世界初の試みで、前者では高温用測定炉、後者ではγ線検出器など計測技術開発からスタートしました。数年の後、両方の実験は最終的に成功しました。世界最高温度でのメスバウア効果の観測と拡散による線幅増加の観測に成功し、メスバウア分光が拡散研究に利用できることを先ず示しました。そしてイオン注入直後であっても鉄原子の跳躍過程をその場観察でき、ジルコニウム中で局所的な鉄原子の跳躍過程(ケージ運動)と長距離拡散を直接捉えています。両実験の詳しい内容は下記ホームページをご覧ください。
1986年、Vogl教授はウィーン大学の固体物理学研究所の教授として招聘され、私はメスバウア分光実験室を新たにウィーンに建設することになりました。当時、西ベルリンからウィーンまでは直線距離で650km、実際には西ドイツのHof、Passau経由で1000kmの道のり。穴だらけの東ドイツの高速道路を自分の車に装置の一部を積んで何度となく往復しました。当時の私のパスポートはまるでスパイのように“西ベルリン”と“西ドイツ”、そして“オーストリア”を往復したことが記載されています。加速器実験は引き続きベルリンで、高温実験はウィーンで行いました。
当時、電子メールが利用できるようになり、ベルリンの同僚とはメールで論文の内容を議論していました。朝から晩までドイツ語で仕事を始めたのもこの時期です。業者にドイツ語で電話し、実験器具を注文し価格交渉もしていました。ベルリンとウィーン、同じドイツ語圏の街ですが、言葉は日本なら標準語と東北弁ほど大きな差があります。単語もかなり違います。もちろん、人も異なります。あまりの違いに戸惑い、自家用車のオーストリアへの輸入で役所をたらい回しにされた時には、ドイツ語で大げんかもしてしまいました。
こんな時期に生涯の友Peter Fraztl博士(左写真・下)と出会いました。彼はX線小角散乱装置を開発し、合金中の析出過程やバイオマテリアルの構造に関する研究を行っていました。彼は私がこれまで出会った科学者のなかで群を抜いて優秀です。彼と共同研究テーマで議論すると、どんどん斬新な発想が生まれてきます。毎日、一緒に研究所の近くのレストランで食事をし、新たな研究テーマについて議論したことを思い出します。彼は現在、ポツダムのマックスプランク研究所の所長をしており、昨年、ドイツでもっとも権威のあるマックスプランク科学賞を受賞しています。
こうして思い返してみますと、松本から始まった私の研究生活、仙台、大阪、ベルリン、ウィーン、そして現在の袋井。実に多くの人々に支えられ今日まで歩んできました。現在取り組んでいる「シリコン中の鉄原子」の問題も10年以上、あと一歩というところまで到達しています。最近では鉄原子だけに敏感な「メスバウア分光顕微鏡」の開発も行っています。信州大学で私を育ててくださった先生方そして先輩、友人に深く感謝して筆を置きます。
● 関連WEBサイト ●
Yoshida Lab.メスバウア分光で挑むナノ物質科学
http://www.sist.ac.jp/~yoshida/
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